2022年3月6日日曜日

ハイデッガーの形而上学(25)
























形而上学そのものの基本的な問題のための名前としての形而上学

予備的評価の結果と形而上学的問い掛けによって心を掴まれた存在に基づいて形而上学の中で行動を起こすことの要請



形而上学という概念の議論全体を検討する時はいつも、この名前が「全体としての存在」に向かう知を表していることが分かる

同時に、「全体としての」という表現が「真の問題」を含んでいる用語であることも分かる

それは「一般的に最初に提起されなければならない」問題であり、伝統からのいろいろな意見を引き継ぐことによって存在しないようにはさせられない問題である

従って、「形而上学」という名前を単に伝統的な意味に取ることができないことは明らかである

我々は、「形而上学」という表現を一つの問題の名前として、さらに望ましいのは「形而上学自体の根本的な問題」――それは形而上学自体が何であるのかという問いの中にあるのだが――の名前として引き継いでいる

「形而上学とは何なのか、哲学するとは何なのか」という問いは、哲学と分かち難くそこにあり、哲学の変わらぬ友なのである

哲学が適切に行われれば行われるほど、この問いは益々鋭く提起されることになる

哲学そのものが何であるのかという問いは、哲学に後から付け加えられたものとしてあるのではなく、哲学そのものに内在している

それに対して、数学、物理学、文献学とは何なのかという問いは基本的に提起されないか、これらの科学によっては解決されないのである


もし、予備的評価から我々が求めるものを考える時、同時に形而上学という概念とそれに対する我々の立場の議論を検討しているとすれば、これらすべての議論は形而上学とは何かについて何も明確にしなかったと言わなければならない

「形而上学」という言葉についての議論において、我々が「哲学する」とは何を言うのかという問いで終わるのである

その意味で、我々の予備的評価は完全にネガティブである

ただ我々は、哲学を特徴付ける一般的なやり方を放棄し、哲学が我々を求めるという意味で、究極のものであり、それ自身で立つ何かとして哲学を問うことを決めた

我々は形而上学や哲学を科学として解釈したり、芸術や宗教と比較したりするのではなく、形而上学や哲学がそれ自身で立つ何か、それ自身が決めた条件で理解されなければならない何かであるという事実を考慮に入れたのである

従って、ここで求められるのは哲学を前にして逃げるのではなく、哲学自体について問うことであった

あるいは、我々は哲学を前に逃げたのだろうか

我々は哲学自体を直に扱ったが、まさにそれ故、哲学の前で逃げたことを認めなければならない

これは目立たない曖昧な形で起こっただけであった

確かに我々は、科学、芸術、宗教というような他のことは語らず哲学について語ったが、それは「哲学の中から出たところから」直に具体的にではなく、「哲学について」語ったのであった

「哲学の中から出たところから」語るのは、我々が前もって「形而上学的問い掛け」の中に入る時だけである

しかし、これは起こらなかった

我々は単に包括的な問い掛け「について」語っただけであった

包括的問い掛けとは、いずれの問いの中でも全体としての存在を含み、問い掛ける人自身も問われることになるものである

どれだけ「それについて」我々が関わろうとも、そのような問い掛けに心が掴まれていなければすべては誤解のままである

我々は哲学に「ついて」語ったが、「そこから出たところから」は語らなかった

確かに、哲学を扱ったが、哲学自体の中で行動は起こさなかった

しかし決定的なことは、「形而上学自体の中で行動を起こすこと」から我々が現れることである

これは、我々が実際に適切に問いを出さなければならないということを意味している


すでに我々は、提起する問題を示した

世界とは、有限性とは、個性化とは何か

ただ、これらの問いは偶然に出されたものであった

もし、これらの問いを形而上学的であると認めたいのであれば、かなり空疎で一般的であり、あまりに漠然としているので我々を無関心の状態に置き、根源的に我々を動かすことがないのである

このようにことを進めるとすれば、我々が放棄したいと思った元のレベルに戻ることになる

理論的議論(科学)をやり、その結果世界観について成果を生み出すだろう

しかしそのことにより、哲学することの浅薄さが回復されるのである

これらの問いを理論的なものとして発展させ、調和を「・・・に加えて」あるいは「・・・の横に」もたらすことではない

そうではなく、我々はまずこれらの問いをその必然性の中に、「根源的な調和の中から出て」立ち上がらせ、それを自立と明瞭さの中に保持しようとしなければならないのである

これがこの講義の最も重要な基本的務めであり、実際に生きた哲学をすることの始まりなのである



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これでイントロが終わったことになる

読み始める前よりは、ハイデッガーの考える形而上学の姿がよりよく見えるようになってきた

そこにほとんど違和感を覚えない

ただ、形而上学を知るためには、形而上学的問いの中にいなければならないというところ

プラトンが言う、何か知るためにはそのことについて少しは知っていなければならないということを思い出す

これからどのように展開するのだろうか

もう少し追ってみたい









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