2022年3月7日月曜日

ハイデッガーの形而上学(26)



























第1部 我々が哲学する際の基本となる気分を呼び覚ますこと

第1章 基本となる気分を呼び覚ます務めと我々の同時代のダーザインにおいて隠された基本となる気分の指摘

16.基本となる気分を呼び覚ますことの意義について予備的理解に至る

a)呼び覚ますこと:手元にある何かを確かめることではなく、眠っているものを目覚めさせること


我々の基本的な務めは、我々が哲学する際の基本的な気分を呼び覚ますことにある

わたしは、任意に哲学するとか哲学そのものにおいてとは言わずに、意図的に「我々が」哲学する際と言ったが、一般的に哲学するということは存在しないからである

それは、我々が哲学することを支える一つの基本となる気分を呼び覚ますことであって、一般的な基本となる気分ではないのである

従って、その気分は一つではなく、我々に関係するのはどれであり、そのような気分はどこから来るのかという疑問に導く

ここで、どの基本となる気分を選び、どのような道を進むのかという問題に直面する


気分は我々が作り上げることができる何かであったり、我々のところにわざわざやってきたり、呼び出したりできる何かではないのか

もし知らない間に入り込むものであるとすれば、そのような気分を人工的に齎すことはできない

それはすでにそこになければならないのである

我々ができることはそれを確認することである

しかしどうやって哲学することの基本となる気分を確かめるのか

それは普遍的に認められた事実として証明できるのか


基本となる気分を所謂客観的に確認することは疑わしく、不可能な企てである

従って、一般的に気分の普遍性を問い、このように確認されたものの普遍的な有効性について熟考することは無意味である

どれだけ注意深くしていても、観察によって見出されるものは何もない


従って、我々が哲学する際の基本となる気分を「確認する」ことに関しては語らず、それを呼び覚ますことについて語ることにしたい

呼び覚ますとは、何かを目覚めさせるということで、眠っているものを目覚めさせることである







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