哲学というものは、精神の中に大きな空間――内なる城塞のようなもの――がなければお相手できないことを確認する
ハイデッガーなどを相手にする時には尚更である
仕事に忙しくしている状況では、その中に入る気分になるわけがないこともよく分かる
「哲学に必要なのは、好奇心と自由と暇である」と言った指導教授の言葉には真理が宿っている
この中の「暇」が最大の必要条件であることをフランスに渡ってから感じ続けてきた
昨日はそのことを再確認した
ということで、今日はお相手できそうである
早速始めたい
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18. この基本となる気分を呼び覚ます前提として、我々の同時代の状況とそこに広がる基本となる気分を確認する
我々がこのことを守るとしても、困難に出会うだろう
それは必然であり、基本となる気分を呼び覚ますことは、例えば花を摘むというように簡単にできることではないことを我々に明らかにするのである
我々は基本となる気分を呼び覚まさなければならない
すぐに現れる問題は、どの気分を呼び覚ますのかということである
我々に基本的に広がっている気分なのか
そこで言う「我々」とは一体誰なのか
我々とは、この教室に集まった人間を言うのか
あるいは、この大学で特定の科学研究をしている限りの我々なのか
あるいはまた、大学に所属して精神教育の過程にある限りの我々なのか
そして、精神の歴史は単にドイツだけの現象なのか、あるい西洋、ヨーロッパのものなのか
あるいはさらに大きな円を描かなければならないのか
如何なる状況における「我々」であり、その状況にどのような境界を定めるのか
この状況について広いパースペクティブを持てば持つほど、我々の地平はぼんやりし、我々の仕事は益々漠然としたものになる
しかし、広いパースペクティブを持てば持つほど、この状況は情熱的に断固として我々一人ひとりを掴むと感じる
もし我々の中に基本となる気分を呼び覚ますとすれば、そのために「我々の状況を確認」しなければならない
しかし、「今日の我々」のためにどの気分を呼び覚ますのか
この問いに答えられるのは、我々が「我々の」状況を十分に知った時だけである
本質的で究極的な何かは基本となる気分を呼び覚ます際に明らかに問題になるので、我々の状況は可能な限りの広さで見なければならない
この要求をどう満たすのか
事をより詳しく検討すれば、我々の状況を特徴付ける要求は新しいものではなく、多くの意味ですでに行われている
それは我々の状況が提示された纏まったやり方を強調し、広がっている基本的な特徴を保持すればよいだけなのである
我々の同時代の状況を明白に特徴づけているものを見渡すと、4つのものに集中してざっとではあるが知っておくことだろう
その場合、選択は曖昧さを完全に取り除くことはできない
しかし、そのような曖昧さは我々が得るものによって無害なものになるだろう
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