b)気分がそこに在ることとないことは、意識と無意識を区別することによっては把握できない(つづき)
しかし、我々が気分を呼び覚ます時は常に、それはすでに在ったと同時になかったというところに導くという事実は残る
そこに在ることとないこととの差異は、意識と無意識の差異と同等ではないことは見てきた
そこからさらに、もし気分が人間に属するもので、人間が気分を持ち、意識と無意識によっては明確にできないとすれば、我々が人間を意識があり、理性を具えた動物であるとして物質から区別される何かとして捉える限り、この問題に近づくことはできないだろう
生きて理性を持った存在としての人間という概念からは、気分の本質を理解するところには全く辿り着けなかった
気分を呼び覚ますこと、この奇妙な仕事の口火を切る試みは、我々の人間の概念を完全に変容させることを要求することになるだろう
始めからこの問題を複雑にしないために、眠りとは何なのかという問題には入らない
なぜなら、方法論的に言えば、眠りと目覚めが意味するところを明確にした時にのみ、我々は呼び覚ますことの本質に関する情報を得ることができるからだ
眠りと目覚めのような現象を明確にすることは、一つの特別な問いとして外から提起できるものではないということだけ言っておきたい
むしろ、そのような明確化は、我々がそのように存在は構造的に決定されて寝たり起きたりできるのかという基本的な概念を持っているという前提の上でしか起こらない
石が寝ているとか起きているとは言わないが、植物はどうだろうか
植物が起きているのか寝ているのかに関して、我々は答えられない
動物が寝ることは知っている
しかし、その眠りは人間と同じかどうかは分からない
これは異なる存在(石、植物、動物、人間)の構造に関する問題と密に結び付いている
現代において眠りが多くの誤解を生んでいるの対して、古代の哲学者の中に眠りの根本的な特徴がもっと基本的、直接的に捉えられているを見る
目覚めと眠りに関する論文を書いたアリストテレスは、眠りを意識と無意識と結び付けていなかった
彼は、眠りを縛られた状態であると見ていた
それが他の存在には入り得ないという意味において、受容や本質も縛られている
このように眠りを特徴付けることは、形而上学的な意図では捉えられなかった広いパースペクティブを開くものである
基本的な形而上学的理由で、我々は眠りの問題に入ることを断念しなければならず、気分を呼び覚ますことの意味を他の経路で明らかにする試みをしなければならない
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