18. この基本となる気分を呼び覚ます前提として、我々の同時代の状況とそこに広がる基本となる気分を確認する
c)文化の哲学が提供する我々の状況の解釈の隠された基本となる気分としての深い退屈(つづき)
もし文化の哲学が提示する我々の状況の解釈というものが間違った道に導くとすれば、「我々はどこに立っているのか」と問うのではなく、「ものことは我々とともにどのように立っているのか」と問わなければならない
もしものことが我々とこのようにかあのように立っているのだとすれば、これは空の中で起こっているのではなく、我々はまだどこかに立っていることになる
従って、我々はまず我々の状況をはっきりさせなければならない
おそらく、前述の解釈とは違うように特徴付けしなければならない
しかしそれは全く必要がない
そのような解釈に入ることなく我々の状況についてはすでに十分に知っているからである
それらの解釈が間違っているとして拒絶する必要もない
これらの解釈が存在し、それらが我々のDaseinを多くのやり方で決めていること(それを正確には言えなくとも)を確認することにより、我々の状況について十分に知っているからである
我々は新らたに問う
これらの文化の診断が我々の中に支持者を見つけるという事実が、ここで起こっていることについて何を我々に告げるのか
この高度なジャーナリズムが我々の精神的空間を制限し満たしているという事実の中で、何が起こっているのか
これらすべては単なるファッションなのか
我々がそれを流行りの哲学と特徴付けて矮小化すれば何かが乗り越えられるのか
我々はそのような安っぽい方法に訴えることは望まない
文化の哲学は我々の状況について何が同時代的であるのかを明確にするが、我々を把握することはないと言った
さらに、我々を把握できないだけではなく、我々に世界史における役割を与えることにより、我々を我々自身から引き離す
我々の逃避、混乱、幻想と喪失感はさらに深刻になる
決定的な問いは、我々がこの役j割を我々自身に与え、それをやらなければならないという事実の背後に何があるのか
我々が我々自身にとってあまりにも取るに足らない存在になり、役割を必要としているのか
なぜ我々は我々自身の意味を見出さないのか
ただ、我々は我々自身の役割を求めるのである
ここで何が起こっているのか
新たに問う
我々は再び、我々を我々自身にとって興味深いものにしなければならないのか
なぜそうしなければならないのか
おそらく、我々自身が我々に飽きたからなのか
人間は自分自身に飽きるものなのだろうか
なぜ
ものことは結局のところ、深い退屈がDaseinの奈落で静かな霧のように行ったり来たりしながら我々とともにあるのだろうか
我々は我々の状況を確かめるために、文化の診断や予測を必要としていない
なぜならそれは、我々を発見するのを助ける代わりに、我々に役割を与え、我々自身から引き離すからである
しかし、どのようにして我々自身を発見するのか
無駄な自己省察で?
あるいは、我々が在るところのものになるという務めを与えられることにより我々自身を発見するのか
我々のDaseinに我々自身を縛り付けることによって、我々自身を発見しなければならないのである
誰もが最初は知らなかった「深い退屈」の兆候を通して、我々自身を発見することになるのだろうか
この疑わしい深い退屈が、求めていた呼び覚まされなければならない基本となる気分なのだろうか
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