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2022年10月18日火曜日

コリングウッドによる自然(25): ルネサンス期の自然観(1)

























これから暫くは、16、17世紀の流れを振り返ることになる

第1回は、反アリストテレス主義について

古代ギリシアに次いで宇宙論に大きな動きがあったのは、16、17世紀である

この動きは、部分的にはアリストテレス(384 BC-322 BC)により、また幾分かはキリスト教により触発された中世の思想に対するネガティブなものとして捉えることができる

攻撃の標的は、目的論、目的因に対する理論、まだ存在しない形相を実現しようとする努力が浸透しているものとしての自然であった

フランシス・ベーコン(1561-1626)は、アリストテレス主義者がある結果を説明するために、その原因がその結果を生み出す傾向を持っていたと言うのは、説明したことにならないと批判

それは、科学本来の課題である原因の構造ないし性質の発見を遠ざけるものである

目的論に対して、作用因により自然を説明するよう主張した

この説明は、変化の起源において、既に存在している物質の活動によるものであった

近代経験主義の先駆者とも言われるベルナルディーノ・テレジオ(1509-1588)は、次のような見方を採っていた

自然は形相を模倣するように外部の何かによって誘導されるのではなく、それ自身の固有の活動性により運動を生じ、自然界の構造を生み出す

ルネサンス期の自然主義哲学は、自然を神的で自己創造的なものと考えていた

そして、存在物としての所産的自然Natura naturata)と、それらに生命を与える内在的な力としての能産的自然Natura naturans)とに区別された

この構想は、アリストテレスよりはプラトン(427 BC-347 BC)に近い宇宙論であった

プラトンは自然的事物の行動様式を、数学的構造の結果として説明した

それに対してアリストテレスは、神的自然の模倣の精巧な連鎖によって説明しようとした

近代科学の真の父であるガリレイ(1564-1642)に至るまで、ルネサンス期の哲学者はプラトンに従った

ガリレイは、自然は神によって数学の言語で書かれた書物であると宣言することにより、プラトンの教説、より厳密にはピタゴラス(582 BC-496 BC)の教説を立脚点にしたのである









2022年10月11日火曜日

コリングウッドによる自然(18): プラトンの宇宙論『ティマイオス』(4)
































ティマイオスによる世界の魂の創造は、次のようなものであった

魂はあらゆる身体の中に注ぎ込むと同時に、それを外から包んでいる

従って、世界の身体は自身の魂にくるまれている

魂とは、物質的世界(様々な過程の複合態)としての自然と、非物質的世界(様々な形相の複合態)としての自然との間にある中間項である

つまり魂は、世界の中にも世界の外にも存在する

それは恰も、人間の魂が身体を超えたところまで届くように意図されているかのように

この本でプラトンは、以下の2点を示そうとした

一つは、如何にして惑星の運動と距離の体系を演繹すればよいのか

二つ目は、このような運動体系の中に現れる生命が、思想や判断を生む、感じ考える生命たり得るのか


ここでコリングウッド(1889-1943)は分析を止め、現存する最も偉大な哲学者であり、最も偉大な現存の宇宙論の著作家であると彼が認めるホワイトヘッド(1861-1947)の意見を紹介する

プラトンもホワイトヘッドも、自然の世界は時空における運動/過程の複合態と、形相の世界を前提として複合態であるとしている

ホワイトヘッドは後者を「永遠的客体」と呼んでいるが、プラトンとの違いが存在している

プラトンにおいては、可視的世界の事物は形相を手本としていたが、形相に近づくだけである

ところがホワイトヘッドの「永遠的客体」は、叡智的世界の近似値ではなく、叡智的世界そのものである

また、『ティマイオス』において、世界の魂は身体に浸透しているが、ホワイトヘッドにとっての精神は現象の一階級に過ぎず、自然の中の特殊な場や時間において現れるものである

この違いこそ、ギリシア的自然概念と近代的自然概念の違いだとコリングウッドは見ている


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これで『ティマイオス』についての考察が終わったことになる

最後のプラトンとホワイトヘッドの違いは、実に興味深い

この世界は「永遠的客体」として叡智的世界が実現したものだというホワイトヘッド

一体、どういうところからそのような考えに至ったのか、興味が湧いてくる

また、ギリシア的自然観では魂は至るところに浸透しているが、ホワイトヘッドはそうは考えないという

こちらもその理由が知りたくなる







2022年10月10日月曜日

コリングウッドによる自然(17): プラトンの宇宙論『ティマイオス』(3)



























今朝は暴風雨のため、風の音で目覚めた

珍しいことである

この嵐で秋の気配が消し去られたような感じがする


今日もコリングウッド(1889-1943)のお話に耳を傾けることにしたい

昨日の最後にカント(1724-1804)の「自然の形而上学」が出てきた

それで思い出したのが、フランスの学会でお話した高名な科学者から、カントやフッサール(1859-1938)は科学者の必読書だと助言されたことである

こういう言葉が科学者の口から普通に出てくる国の科学を取り巻く文化を思い、なぜか嬉しくなったのである

今日はその記憶が前に進むのを助けてくれそうな予感がする



感覚的世界の存在を説明するために、なぜ創造主たる「神」を持ち出さなければならないのか

ティマイオスにとって、形相の叡智的世界は存在しなければならないし、「神」も存在しなければならない

ただ、その理由を語っていない

後にアリストテレス(384 BC-322 BC)が説明している

形相とは変化の源泉すなわち作用因ではなく、他のところで起こった変化を制御するだけである

形相は基準であり行動の主体ではない

そのため、この世界における生命と運動の源泉は他のところに求めなければならない

それはこの世界には属さない永遠の主体で、「神」という名に相応しい


次にティマイオスは、神がなぜ世界というものを創ったのかと問う

それは、神が善であり、善の本性はその外に流れ出し、それ自身を再生産することだからである

善きものは、その善を独占的に享受することに満足せず、他に分け与えずにはおかないものなのである

であるとすれば、善を分け与えるべき何ものかが存在していなければならない

それは、形相すなわち善を受け取る可能性のある非形相的な混沌に他ならない

ティマイオス』における「神」は、デミウルゴスすなわち製作者、職人のことである

デミウルゴスの創造的行為は絶対的なもの(Creatio ex nihilo)ではなく、手本を前提にしている

手本となる形相が、写し取る行為の前に存在しているとすれば、その相関概念である物質も存在していたと考えられる

とすれば、ものを製作するとは、形相を物質に押し付けることになる

ここで注意しなければならないのはギリシア的創造観念と、キリスト教とともに生まれた絶対的創造とを区別することである

近代的な見方でプラトンを捻じ曲げてはならないということである








2022年10月9日日曜日

コリングウッドによる自然(16): プラトンの宇宙論『ティマイオス』(2)
































感覚的世界では、ある事物の全体的本性は一度には認識されない

例えば、動物は寝たり起きたりするが、その2つを同時に認識できない

時間を変えなければならないのである

しかし、叡智的世界においては、すべての本性を同時に認識できる

例えば、三角形の特質は如何なる時にも表れているので、一度にすべてを認識できる

無時間的自己充足の「動く影」が叡智的世界を特徴付ける時間の持続になる


もし自然界が時間と同じくらい古く、ある瞬間に存在するに至ったのでないとすれば、なぜ自然界はそれ自身で存在していると見做してはならないのか

なぜその外に創造者を探さなければならないのか

ティマイオス』は、全自然界は成る世界であり過程であるので、原因がなければならないと答える

この議論に対してカント(1724-1804)であれば、それは詭弁であり弁証法的であると答えるだろう

その理由は、ある現象を他の現象と結び付けるための範疇を誤用しているからである

原因と結果は、一つの生成過程と他の生成過程との関係であり、現象の全体と現象(生成)でないものとの関係ではないのである

カントから見れば、すべての生成には原因があるというティマイオスの主張は曖昧である


18世紀のデイヴィッド・ヒューム(1711-1776)は、原因とは結果に先立ち、必然的にそれと関係するものとして確認した

カントの批判は、18世紀的意味における原因の枠組みの中でだけ有効である

しかし、ギリシア人にとっての原因は、「なぜ」という問いに対する答えを与えるものである

周知のように、アリストテレス(384 BC-322 BC)は、質量因、形相因、作用因、目的因の4種を区別した

これらのいずれもが、時間的に先立つ出来事と見做されるものではない

新しい有機体を生み出す作用因は発生という出来事ではなく、行為を行った両親とすれば、現象界の外に原因を求めることが間違いにはならない

カントは、悟性が自然を作るという独創的な解を出した

この問題は、自然が自ら説明せず、説明を要求する事実の複合態として現前していることを感じると、問われなければならないものである

その方法として、事実と事実の関係を示すこと、一つの事実を残りの事実との関連で説明すること

もう一つは、様々な事実はなぜ存在するのかを説明することである

これこそ、カントが「自然の形而上学」と呼んだものであり、『ティマイオス』の方法である










2022年10月8日土曜日

コリングウッドによる自然(15): プラトンの宇宙論『ティマイオス』(1)
















今日から、しばらくお休みしていたコリングウッド(1889-1943)の議論に戻ってみたい

これから始まるのは『ティマイオス』の宇宙論で、これまでこの本を読んでいたのはその準備運動であった

この本はプラトンの自説を展開したというよりは、紀元前5世紀後半のピタゴラス学派の教説を述べたものだと考える学者もいるようだ

いずれにせよ、コリングウッドはその内容の説明を始める


まず、感覚的に捉えられる世界は、神によって創造された有機体あるいは動物だと考えられていること

ここにはイオニア思想が表れているが、ピタゴラス(582 BC-496 BC)による物質から形相への転換が見られる

上記学者は、『ティマイオス』の宇宙論は物質抜きで、すべては純粋な形相に解消されたとまで断言しているという

コリングウッドは、それは行き過ぎだと考えている

ただ、『ティマイオス』の物質は幾何学的形相を受け入れることができるもので、それは物質から超越して一つの叡智的世界を構成している

この叡智的世界こそが、神が自然を創造する時の手本とした永遠不変のモデルであった

叡智的世界は、様々な形相が弁証法的関係の力により動的に関係しているため、非物質的有機体あるいは動物であり、生きているとされる

ただ、その世界には時空間がないので、運動により生きているのではない

それでは一体、どのようにして時空のある自然界の特徴を創り出すのだろうか


まず、空間から考えてみたい

『ティマイオス』における空間は、叡智的世界の特徴に照応しない

空間あるいは物質(形相を受け入れるもので、空間と同一視している)から宇宙論を始めている

空間とは、そこから複製が創られるところであり、神が空間を創ったということを示そうとはしていない


時間に関しては、神の創造行為の前提ではなく、神の創造物の一つである

自然と同時に存在することになったものである

従って、創造は時間内の出来事ではなく、永遠の行為とも言えるものである

時間は「永遠の動く影」として創造されたという難解な表現がある

第1に、時間は自然的物質的世界の特徴で、通り過ぎては消えて行く

第2に、この世界の一切のものは叡智的世界の複製であるとすれば、そこには消え行く時間に照応する特徴がなければならない

それは、時間の不在や無限などではなく、変化も消滅も含まない「永遠」であるという

永遠とは、それ自身の存在するあらゆる時間に、それ自身に必要な一切のものを含んでいるものである


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わたしも興味を持っている「永遠」

分かったようなつもりになっていたが、よく分からない

もっとじっくり考えれば見えてくるのだろうか

あるいは・・・






2022年10月4日火曜日

プラトンの『ティマイオス』を読む(11)


























これまでの話で、最初に設定したテーマ、すなわち、万有について、人間の誕生に至るまでの説明はできたように思う

この後、それ以外の生物については簡単に言及するだけでよいとして、次のように続ける

例えば、鳥は次のような男の毛髪の代わりに羽を生やして作られた

その男とは、罪はないが軽率で、天空のことには詳しくても根は単純で、目で見て得られるものだけを信じるような人である

獣の類は、頭の中の軌道ではなく、胸部の魂の指導するままに従うため、哲学(知の探究)に親しむことのなかった男から生まれた

このような生き方をしているので、頭と前脚が大地に引きつけられることになり、場合によっては支えを増やすために多足にもした

彼らの中で最も愚かで、地上に長々と体を伸ばしているものは、無足で這うものとして生み出した

そして水棲族は、知性にも学知にも無縁な人から生まれたので、最早純粋な呼吸は必要ないとされ、水の濁った深みへと突き落とされた

極度な無知に対する罰として、最果ての住処を割り当てられたのである


最後に纏めると、こうなるだろう

この宇宙は、死すべきもの、不死なるものの両者を包括し、目にみえる生き物として、感覚される神として、最大で、最善で、最美で、最完全なるものとして誕生したのである



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これで『ティマイオス』を読み終えたことになる

読み始める前にイメージしていたものとは大分違った

もっと多くの部分あるいはすべてが、この世界や宇宙の成り立ちについての論考で占められていると想像していたからである

しかし、実際には人間の成り立ちや病気と健康などについてのお話が多かった

科学が発達する前のこのような議論には意味がないという意見も耳に入るが、わたし自身はそうは考えないようになっている

彼らの時代における知を基に、何かを想像する過程、統合的に理解しようとする思考の働きに興味があるからだ

そこにある論理的であろうとする意思や想像力の飛躍など、驚くことが少なくないのである

以前、プラトンと医学について纏めていたことを思い出した

参考までに以下に貼り付けておきたい



『ティマイオス』はコリングウッド(1889-1943)から入った寄り道ではあったが、大きな発見に導いてくれた

これで、コリングウッドに戻ることができそうである









2022年9月30日金曜日

プラトンの『ティマイオス』を読む(10)

























一つの生き物と身体各部との関係を教導する際に重要になるのは、魂である

従って、その魂を最も優れたものにすることが求められる

すでに、異なった3種類の魂が我々の中に住んでいることに触れた

その中で、無為に過ごし自身の動きを止めているものは弱いものになるのに対し、鍛錬されるものは強くなるのが必然である

そのバランスを取るように注意しなければならないのである


我々の魂の中で至上権を握っているもの(理性)は、神が神霊(ダイモーン)として各人に与えたものである

そこで欲情や野心の満足のために汲々としている者は、その思いのすべてが死すべき(地上的な)ものになり、その人自身も死すべきものになる

これに対して、学への愛、真の知に真剣に励んできた者がもし真実に触れるなら、その思考の対象が不死なるもの、神的なものになるのは必然である

さらに、そうした人も最大限の不死性にあずかることになり、自身の同居者である神霊の世話をしているので、幸福(エウダイモーン=よき神霊を持てる者)であることも必然である


ところで「世話」というものだが、その方法は唯一つ

それぞれに固有の養分と動きを与えてやることである

生れた時に損なわれてしまった我々の頭の中の循環運動を、万有の調和と回転運動に学んで矯正し、観察する側を観察される側に似せ、前者を本然の姿に戻さなければならない

そのことにより、最もよき生を全うしなければならないのである










2022年9月29日木曜日

プラトンの『ティマイオス』を読む(9)

























今朝は久しぶりのカフェの後なので、余韻を味わいながらゆっくりスタートした

屋外に出て、風と人の流れを感じながら読む『ティマイオス』もなかなか良かった

今日は魂の病気だが、それは身体的条件を通じて起こる


まず、「魂の病気」とは「理性を欠いていること(愚かさ)」で、それには2種類がある

一つは「狂気」であり、もう一つは「無知」である

また「快」「苦」が過度になると、病の中でも最大のものとなる

さらにまた、酸っぱい粘液や塩辛い粘液、苦くて胆汁質である体液が内部に閉じ込められ、自分の出す蒸気を魂の運行に混じらされると、魂のありとあらゆる病気を作り出す

「気難しさ」「意気消沈」、「向こう見ず」「臆病」、「物忘れの早いこと」「物覚えの遅いこと」など


ここで、身体と精神が健全性を維持するために、この両者をどのように面倒を見るのかを考えてみたい

善いものはすべて美しく、美しいもので均斉の取れていないものはない

したがって、善美の性質を具えようとすれば、均斉の取れているものでなければならない

「健康と病気」「徳と悪」を考える場合、魂と身体の間の釣合い以上に重大なものは存在しないのだが、我々はそれについて考えてみようともしない

魂の方が強力で偉大なのに、それを乗せる体の方が弱すぎる場合、魂が激怒すると身体全体を揺り動かし、病気でいっぱいにする

一方、過ぎた身体が弱い精神と共生する場合、我々の2つの欲求である食欲と最も神的な知を求める欲求のうち、前者が優勢になり、魂の方は最大の病である「無知」に至る

これらの病気に対処するには、体と魂の均衡を保つことである

つまり、精神面の激しい訓練に従事する人は体育にも親しむこと、反対に体づくりに励んでいる人は音楽や文芸、そして「哲学」にも携わり、魂に運動を与えてやらなければならない


ところで「動き」だが、最も優れているのは自分自身の中で自分自身によって動かされるようなものである

2番目に良いのは、乗り物で行く場合に振動を通じて与えられる動きである

第3の動きは、医薬(下剤)を用いて浄化する場合だが、これは避けるべきものである

なぜなら、大きな危険性がない限り、病気は医薬によって刺激されるべきではないからである

それぞれの生き物は運命によって割り当てられた生命を持って生まれてくるものである

それは、生き物の三角形の寿命を越えては生きることができないように構成されているからである








2022年9月26日月曜日

プラトンの『ティマイオス』を読む(8)


































ここで、病気の第3の種類について触れる

これらは「息」「粘液」「胆汁」という3つの仕方で起こる

「息」が原因の場合だが、息を配分する「肺」が体内の流れによって塞がれると、息が入っていかない場所と適量以上入り込む場所ができる

こうして、息が入らない場所では腐敗が起こり、他の部では血管の中を無理やり進み、体を溶かしながら中央に閉じ込められるため、苦しい病気を生み出す

また、体内で肉が分解し、それによって息が生じるが、外に出て行くことができないため、上記と同じ苦痛を齎す

苦痛が最大になるのは、息が腱および小管のまわりを取り巻いて膨張し、背中の腱とこれに接続するいくつかの腱を後向きに引っ張る場合である

この場合、「強直痙攣(テタノス)」あるいは「後弓反張(オピストトノス)」と呼ばれ、治療が困難である


次に、「白い粘液」が体内で遮断されると、泡に包まれている息により危険な状態となるが、外へのはけ口が見つかると、それほど危険ではなくなる

また、白い粘液が黒胆汁と混じって、最も神的なものである「頭の中の循環運動」の上に撒き散らされると、睡眠中であれば軽症だが、覚醒時には排除しにくくなる

これは神聖なものを侵す病気なので、「神聖病(癲癇)」と呼ばれるべきものである

それから、「酸っぱくて塩辛い粘液」が頭から下に流れるカタル性の場合、流れた先が多種多様なので、いろいろな名前が付いている


体が焼かれたり燃やされたりする炎症部分のすべては「胆汁」に由来する

これが血液に混じって「繊維素」の類を本来の秩序から外すと、病気は最も重症になる

元々「繊維素」が血中に撒布されたのは、血液が微細さと粗大さのバランスをとるためであった

「胆汁」はそもそも古くなった血液に過ぎないので、それが少しずつ血中に入り込むと、繊維素の働きにより凝固することになる

もし大量の胆汁が流れ込むと、自らの熱で繊維素を征服し、胆汁が常に優勢を保つ場合、髄にまで達し、魂を繋ぎ止めている纜とでも言うべきものを解き、魂を自由に解放する

そこまで行かない場合には胆汁の方が征服され、放出されるか、体腔の下部(腹部)か上部(胸部)に押し込められてから放出されるが、その際に「下痢」「赤痢」になる

また火の過剰から病気になる場合、「持続する灼熱や熱」を作り、空気の過剰によるものは「毎日熱」、水の過剰によるものは「三日熱」、土の過剰によるものは「四日熱」を生み出す










2022年9月25日日曜日

プラトンの『ティマイオス』を読む(7)




























このような臓器が植え付けられた後は、庭に水を引く溝のようなものを備え付けた

最初に、皮膚と肉の下で背中に沿って2本の血管を下に垂らし、灌漑が万遍なく行われるようにした

また、頭のところで血管を編み合わせて、右から来たものは左へ、左から来たものは右に傾斜させた

さらに、呼吸や老年、病気についても説明される

呼吸の説明は難しいが、老年についてはこんなことを言っている

若い時には、体を構成する三角形の接合もしっかりしているが、時間を経ると緩んできて、入って来る養分の三角形を切って自分に同化することができなくなり、逆に自身が分解される

これが老年で、髄のところの三角形の絆が切れると、魂の絆も解かれ、解放されて快く飛び去る

病気や傷害による死は不自然なために苦しいものになるが、自然に終局に向かうものは寧ろ快楽を伴うのである


病気がどのように起こるのかは、誰にも明らかだろう

体を組み立てている4種のもの(土・火・水・空気)が、不自然に過多になったり、不足したり、本来の場所から移動したりすると、内部に不和を齎し、病気になる

また、「髄」「骨」「肉」「腱」「血液」などは4種のものから二次的に組み立てられたものだが、生成の順序が逆行すると組織が壊滅することになる

自然の順序とは、「血液」から「肉」「腱」が生じる

腱は繊維素を素材とし、肉は繊維素を除去した後の血液から出来る凝固体から生まれる

そして、腱と肉は脂ぎったもの、粘っこいものを分離し、肉を「骨」に膠着させる

この順序が逆になると病気が生じるのである

病気の中で最もひどいのは、髄の実質が何かの不足か過剰によって侵されるもので、致命的な結果になる








2022年9月24日土曜日

プラトンの『ティマイオス』を読む(6)

























前回、魂の中で死すべきものがどのようなもので、それらがどのような位置に配置されたのかを見た

今回は、体の他の部分がどのように生じたのかについて説明したい

まず、食べ物に対する不節制が起こりうるので、余分な飲食物を入れる容器として「体腔下部」を作り、そこに「腸」をぐるぐると巻いた

そうしなければ、食物はあっという間に通過して食い気が止まらず、神的なものの言うことに耳を貸さない非哲学的な状態になるからである

次に「骨」や「肉」、その他すべてだが、その出発点は「髄」の生成である

魂と身体が結びついている場合、生命の絆となるものが「髄」の中に縛られている

「髄」は三角形のうちでも歪みがなく、火・水・空気・土を正確に生み出すことができたものを、神が選別し、均衡がとれるように混ぜ合わせた「すべての種子の混合体」を考案、これで「髄」を作り上げた

そして「脳」とそれを入れる容器として「頭」を作った

さらに、「骨」「脊椎」「関節」「腱」「肉」「口(歯、舌、唇)」「皮膚」「指」「爪」などの生成について説明されている










2022年9月23日金曜日

プラトンの『ティマイオス』を読む(5)



























それから、火、空気、水や土の多種多様なものについての説明が続くが、ここではその中には入らない

次に、感覚的性質がどのようにして具わったのかが問題になる

例えば、「熱い」「冷たい」、「硬い」「軟らかい」、「重い」「軽い」(「上」「下」)、「滑らか」「粗い」、「快い」「苦しい」などの生成メカニズムが語られる

さらに、嗅覚、聴覚、視覚(色)へと進む

その内容は、いまから見れば参考にはならないが、参考になることがあるとすれば、すべてをその時点における知を駆使して統合的に説明しようとする精神だろうか


そして話は出発点に戻る

最初は無秩序な状態にあったが、神はまず秩序づけ、それらのものを材料にして、この万有を構成した

神的なものは神自身が製作者となったが、死すべきものは、その製作を自分が産み出した子供たち(神々=天体)に命じた

そこで神の子らは、父に倣って魂の不死なる始原を受け取り、そのまわりに死すべき身体を作った

その身体の中に、魂の別の種類のもの(=死すべき魂)を加えようとした

しかし、その魂は恐ろしい情態を含んでいる

例えば、悪へと唆す最大の餌である「快」、善を回避させる「苦」、思慮のない「逸り気」「怖れ」、宥め難い「怒り」、迷わされやすい「期待」などである

これらの諸情念が神的な理性を穢すことのないように、神々は両者を体の中で別のところに住まわせた

すなわち、頭と胸の間に頸を介在させ、死すべき魂を胸郭の中に隔離したのである

また、死すべきものの中にも優れたものと劣ったものがあるので、勇気を具えた負けず嫌いの部分は頭に近く、横隔膜と頸の間に住まわせた

血液の源泉を成している「心臓」は番兵詰所とされ、不正な行いが体内であると、血管を介して全身に理性の通告を送る


怒り(「火」を通じて起こるとされた)などで心臓の動悸が起こると、それを救援するために「肺」を植え付け、心臓を冷やして寛がせる

また、食欲などの身体に必要な欲求は、横隔膜と臍の間に住まわせ、熟慮する部分から離しておいた

神は、この部分に甘さと苦さを兼ね備えた「肝臓」を配置し、恐ろしい獣が来た時には苦味で威嚇し、その反対の場合には甘さで対応できるようにした

肝臓の横には、肝臓のために「脾臓」という肝臓の汚れを落とす臓器を置いたのである












2022年9月22日木曜日

プラトンの『ティマイオス』を読む(4)


























宇宙が生成する以前に、「あるもの」(モデル?)「場」「生成」が存在していた

生成の養い親である「場」はいろいろなものを入れるが、どの部も均衡が取れず、あらゆる方向へ動揺させられていた

丁度穀物の不純物を取り除くための容器のように揺さぶられ、相互に似ているものを集め、似ていないものを引き離した

宇宙が生まれる前は、すべてのものが比率も尺度もない状態だったが、神が初めて、形と数を用いて形作ったことになる

そしてその際、可能な限り立派な善いものに構築したのである

その上で、これまでに挙げたそれぞれのものの配置と成り立ちを明らかにしたい


まず、火、土、水、空気は奥行きを持ち、それは面で囲まれているが、平面は三角形を要素として成り立っている

三角形には二等辺三角形と不等辺三角形の2種類があり、前者は一通りの型があるだけだが、後者には無限の型がある

これを物体の始原(アルケー)と仮定する

ここで、無限の型がある不等辺三角形から最も立派なものを選ばなければならない

それを、2つ集まれば正三角形になるものと仮定する

これらが結びついていろいろな立体が構築され、宇宙の構成要素となる

最も原初的な立体は正四面体で、最も動きやすいので火に割り振る











同様に、正八面体は火と水の中間の形として空気に、正二十面体は動きにくい形なので水に、正六面体は最も安定した底面を持っているので土に割り当てることにする





例えば、土が火に出くわし、火の鋭さによって分解されると、再び土同士が組み合わさるまで移動を続ける

水が火や空気によってばらばらにされると、水の部分が結合して火の粒子1個と空気の粒子2個が生じる

また空気の1粒子が解体すると、火の粒子2個が生じる

といった具合に、同種や異種のものが混じり合って無限の多様さが現れるのである











2022年9月21日水曜日

プラトンの『ティマイオス』を読む(3)


























この宇宙は、「理性」を通じて製作されたものと「必然」を通じて生じるものの混成体として生み出された

その際、「理性」が「必然」を説き伏せて、生成されるものが最善になるよう「必然」を指導する役割を演じたのである

そこで問題は、宇宙が生成される前には、火、水、空気、土の本性は何であり、どのような状態にあったのかである

それらを始原(アルケー)とか、それよりさらに遡った諸始原(アルカイ)と呼ぶのはよいが、それを明らかにするのは難しい

ここでは「ありそうな言論」に徹するしかないだろう

鷗外(1862-1922)で言えば、「かのように」か


これまでの万有についての議論では、2つのものを区別した

1)モデルとして仮定されたもの、理性の対象となるもの、常に同一性を保つもの

2)モデルの模写に当たるところのもの、生成するもの、可視的なもの

しかし、ここで第3のものを明らかにしなければならないだろう

それは、「あらゆる生成の養い親のような受容者」とでも言うべきものである

これはどういうことなのだろうか


次のように考えてみたい

まず、「水」と名付けているものは、凝固すれば石や土になり、溶解・分解すれば風や空気になり、空気が燃えると火になり、火は凝集して消えると空気に帰り、空気は濃密になると雲や霧になり、さらに圧縮されると流れる水が生じ、そこから石や土へというサイクルが始まる

このように変化の中にあるものについて、どれを一定のものだと言えるだろうか

今ここに現れている現象を、例えば火と呼ぶのではなく、その都度これこれであるもの、あるいはそのような特性を火と呼ぶことにするのである

これはすべての物体を受け入れるものについてもいえる

その物体はありとあらゆるものを受け入れながら、それらによって影響を受けることがないものである

そこを出入りするものは「常にあるもの」(理性対象)の模像で、写し取られたものである


当面、3つの種族を念頭に置かなければならない

1)生成するもの

2)生成するものが、それの中で生成するところのもの(受容者)

3)生成するものがそれに似せられて生じるそのもとのもの(モデル)

この中で、受容者はどんな形をも持たないものでなければ、あらゆる種類を受け入れることができない

ところで、「それ自体でそれぞれのものとして独立にある」というようなものは、存在するのだろうか

もし理性(真に知る思考)と正しい思惑(憶測でたまたま真実を射当てた場合の思惑)が種類を異にするとすれば、感覚では捉えられず、理性によってのみ把握される形相は、完全にそれ自体として独立に存在する

この点に関して、理性と思惑が当たっていることには違いがないとする人がいるが、それは違う

なぜなら、一方は真なる説明を伴っているが、他方は説明がない

また、理性に与るのは神と少数の人間に過ぎないが、他方は人間誰もがそれに与っているからである


ここで、次のものがあることに同意しなければならないだろう

第1に、同一性を保っている形相で、生滅することはなく、感覚されることもないもので、理性がその考察の対象としているもの

第2に、感覚され、生み出され、常に動き、ある場所に生じては滅び去るもので、思惑や感覚の助けを借りて捉えられるもの

そして第3に、いつも存在している「場」で、滅亡することなく、生成するすべてのものにその座を提供しているもの

その上で、真実とは次のことに他ならない

似像は、その拠って生じたところのもの(自身の成立条件・原理)が似像自身のものではなく、他者の影像として動いているので、他者の中に生じて、どうにか「ある」にしがみついているのが、似像に相応しい在り方である

真に在るものには、厳密な意味で真なる言論が味方について、あるものと他のものが別のものである限り、同じものが同時に1であり2であるということは決してないと主張する









2022年9月19日月曜日

プラトンの『ティマイオス』を読む(2)


























そこで生じたものは、立体的、可視的、可触的でなくてはならない

「火」を欠いては可視的にはならず、「土」を欠いては固体とならないだろう

この両者を結びつけるためには「水」と「空気」が必要で、そこで重要になるのが比例である

神は、それぞれの比が等しくなるように結合させ、自己同一的なものに仕上げた

宇宙が完結した諸部分から成る、最大限に完結した本性を具えた生き物であるように、他の宇宙が生じないように材料を残さないように、また不老無病であるようにしたのである

形としては、中心から端までの距離がどこも等しく、あらん限りの形を含むものとして球形に仕上げた

宇宙は自分で自分を消耗しては自分の栄養とし、自足の方がより善いと考え、表面に無駄なものを付けることをしなかった

このような宇宙に相応しい運動として、理性と深く関係する運動、円を描く回転運動を割り振った

神は、その真ん中に魂を置き、全体に引き伸ばし、さらに外側から魂で覆ったのである

その際、魂は身体を支配し、身体は支配されるべきものとして構成した

宇宙が生まれるまでは、昼も夜も、年も月も存在しなかった

宇宙の誕生とともに、一のうちに静止している永遠を写して、その似像として神は時間を作った


さて、身体の各部分の成り立ち、魂についても同様に、どのような原因によって生じたのか

それは神々のいかなる配慮だったのか

神々は神的な循環運動を、万有の形が丸いのに倣って、球形をした身体に結びつけた

それが「頭」で、神的なものであり、すべてに君臨する

その頭に奉仕するものとして身体の全体を与え、例えば四肢は、最も聖なるものをあらゆる所に運べるようにした

そして、神々は最初に光を齎す目を作った

この視覚こそ、我々に最大の稗益を成す原因となっている

視覚により目にすることがなければ、哲学を言われるものを手に入れることはなかった

死すべき種族に、これより大きな善が神々から贈られることはなかったし、これからもないだろう

視覚の目的は、天にある理性の循環運動を観察し、それと同類ではあるが乱れた状態にある我々の思考の回転運動を正すことなのである

また、聴覚もハルモニア(楽器の調子の整え方)のために、調子はずれになった魂の循環運動を自己協和に導くために贈られたものである









2022年9月18日日曜日

プラトンの『ティマイオス』を読む(1)

























コリングウッド(1889-1943)は、これからプラトン(427 BC-347 BC)の『ティマイオス』を論じるようである

論者の分析を読む前に、原典を読んでおくことにした

自分の感想を持っておきたいと思ったからである

ゆっくり読んでいきたい


ティマイオスは天文学に通じ、万有の本性を知ることを仕事としてきた人物

クリティアスが、宇宙の生成から始めて人間の成り立ち、自然の本性のところまでをソクラテス(c.470 BC-399 BC)に話すよう促す

ティマイオスはまず、「常に在る、生成しないもの」と「常に生成し、在るということがないもの」の区別を提案する

前者は、同一性を保つので、理性、言論により把握されるが、後者は、思惑、すなわち言論を欠く感覚により思いなされる

生成される場合、同一性のあるものをモデルにすると製作物は立派になるが、作り出されたものをモデルにするとそうはならない


全宇宙(ウラノスコスモス)について考える際、まず、宇宙は出発点がなく、常に在ったものなのか、あるいは、ある出発点から始まり、生成したものなのか、を区別しなければならない

生成した場合、原因(製作者)があるはずだが、それを見出すのは至難の業

ただ、宇宙は最も立派なものなので、製作者は理性と言論で把握できる同一性を持つモデルに倣って製作したはずである

製作者は善きものであるので、できるだけ自身に似たものになるようにした

無秩序よりは秩序を、理性なきものより理性あるものを求めたのである

そして、理性を魂の内に、魂を身体の内に結びつけ、本性上最も善き作品にしようとした

実際、この宇宙は、魂を具え、理性を具えた生きものとして生まれたのである

ところで、宇宙は1つなのか、あるいは多なるもの、無限なるものなのか

理性の対象となるものすべてを包括しているのが宇宙だとすれば、それが2つ以上あることはありえないので、宇宙はただ1つだけであり、今後もそうであろう









2022年9月17日土曜日

コリングウッドによる自然(14): ピタゴラス学派(7)























 Velia (Elea), Italy




今日は、プラトン(427 BC-347 BC)の成熟した形相概念がテーマである

プラトンとエレア派と鋭く異なるのは、次の点である

エレア派が言う真に実在するもの、あるいは叡智的(これはintelligibleの訳なので、知性を働かせれば理解可能になるという意味か)な世界は、同時に物理的世界である

すなわち、感覚による物理的世界に見られる特徴は反対の特徴を持つという逆説を含んでいた

これに対して、プラトンにとっての叡智的世界は物理的ではなく、純粋な形相である

物理的な特質は感覚的世界の特徴で、その世界は叡智的ではない


この相違によって、もう一つの相違が生じるとコリングウッド(1889-1943)は言う

叡智的な存在を形相と同一視することによりプラトンは、感覚により我々に映る物理的世界と、思惟によって我々に明らかになる物理的世界の間にある区別を廃棄したのである

つまり、物理的世界について知り得ることは、すべて感覚を通して認識される

感受する方法を変えれば、必ずしも我々を欺くとは言えないだろう

自然の世界は常に変化しているので、決定的な性格を持たず、厳密に言えば、認識も理解もできない

しかし、その中に叡智的なもの、形相を求めることに異論はないはずだ

事実を単に観察、分類するだけでなく、そこにある形相的要素を発見することを使命とする自然科学をプラトンは擁護している

超越性と内在性が絡み合っている状況は、ピタゴラス(582 BC-496 BC)にもソクラテス(c.470 BC-399 BC)にもあった

それを明確に区別したのがプラトンだったが、次のような方法で両者を組み合わせたと思われる

形相とは、厳密に言えば、超越的であり、内在的ではない

例えば丸い皿の場合、超越的な丸の形相は陶芸家や見る人の頭の中にある

そこに見える皿は、「丸さ」の実例ではなく、「丸さ」に近づいたものの実例に過ぎない

感覚的事物に内在する形相は純粋の形相ではなく、それに近づいた形相なのである

円形そのものではなく、円形の模倣、円形に向かう傾向に過ぎないという


後の新プラトン主義によれば、純粋な形相を具現化する試みが成功しないのは、物質の強情な反抗のため、あるいは物質が可塑性をもって形相を受け止めようとしないからだという

ここから、新プラトン主義者にとっての物質は欠点のあるもの、悪の原因とされた

ただ、プラトンの著作の中にはこの考えは存在していない











2022年9月16日金曜日

コリングウッドによる自然(13): ピタゴラス学派(6)

































エレア派の始祖パルメニデス(c.520 BC-c.450 BC)のプラトン(427 BC-347 BC)に対する影響について、再度検討している

現存する断片の中でパルメニデスは、思考には「真実の道」と「思惑の道」という2つの道があるとしている

思惑の中に真実はまったく含まれず、思惑は全き誤謬である

真実は純粋な思考によって到達されるべきで、思惑の蓋然性を一顧だにしない

これは方法論的あるいは認識論的な超越論とでも言うべきもので、思惑の道を超越する道として語られている

さらに、存在するものは1つで永遠でなければならず、他のものが存在することは不可能であるとする

ここで言う存在する1つのものとは、物理的、物質的な世界のことである

つまり、世界は連続的、同質的、不可分なる充実体(plenum)で、そこには運動はあり得ない

これこそ真に実在する世界であり、我々が明晰に思考する時にのみ知ることができる叡智の世界なのである

それに対して、変化と運動の世界、生成と消滅の世界、すなわち感覚的世界は思惑の世界で、真の実在ではない

この2つの思考法は、プラトンの超越性を強調する対話篇(特に『国家』)にも見ることができる

つまり、殆どの人が認識していると思っていることは、実は感覚的世界によって欺かれたものであり、真の実在は感覚的でしかも叡智的な対象であるという確信を見出すのである










2022年9月15日木曜日

コリングウッドによる自然(12): ピタゴラス学派(5)

























ピタゴラス学派ソクラテス(c.470 BC-399 BC)の哲学における形相概念が内在性だったのに、プラトン(427 BC-347 BC)はなぜ反対の超越性に向かったのか

アリストテレス(384 BC-322 BC)の『形而上学』によれば、プラトンが若い時、ヘラクレイトス(c.540 BC-c.480 BC)の弟子クラテュロス(紀元前5世紀)の影響を受けた

ヘラクレイトスが言うように、この世界が万物流転で常に変わりゆくものだとすれば、あるものについて知ることはできないという懐疑主義に陥ったとされる

クラテュロスは、最終的に何も言わないという結論に達した

ソクラテスの哲学はその正反対で、クラテュロスが放棄したロゴスについての関心を明確にして強化した

ソクラテスの精神生活は精力的で、強靭な意志によって貫かれていた

しかしクラテュロスは、絶え間ない変化で溢れる感覚的世界に囚われ過ぎ、精神的自殺をしてしまったのである


そこからプラトンが得た教訓は、感覚的世界に囚われているかぎり、誰にでも同じことが起こるということであった

常に揺れ動く感覚的世界では、思想が落ち着く場がなく、定まったものがない以上、何ものも知り得ない

ソクラテスの倫理的探求の中で、例えば勇気について考える時、人間の中で起こる一時的な心理学的過程ではなく、勇気の理想状態、その人の前に据える鑑に関心を寄せたのである

ソクラテスは勇気の形相を独立して存在するものとせず、『パルメニデス』の中で主張したように内在説を採った

プラトンがなぜ内在説から超越説に移行したのか

コリングウッド(1889-1943)は、クラテュロスの遺産に対する自己防衛の必要を感じたためではないかと推論している

クラテュロスの考えをそのままにしておくと、例えば「勇気」というものはある瞬間には存在するかもしれないが、次の瞬間には変化し、無に帰している可能性がある

この事態をプラトンは避けなければならないと考え、超越性を強調することになったのではないか

コリングウッドはそう考えている


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この問題は実に根が深く、現代の根底に横たわっている

確かに、感覚的世界の中にいては、秒単位で移り変わる情報に流されるままである

そこでは、何も知ることができない

この状況は、わたしがフランスに渡る前に痛感していたことである

テレビや新聞の情報に当たるだけの生活の中で、不全感を抱えていたのである

何かを理解したという感覚が全くなかったからである

そこで日常の時間の流れを一旦止めることを思いついたのである

それを当時は「自分の頭の中を整理するため」と表現していた

流れの止まった落ち着きのある場から「もの・こと」を眺め、考えてみようということだった

15年に及ぶ天空での生活は、確かに「もの・こと」を見る時の固定された軸を提供してくれたように感じている

それは超越的生活が齎した超越的なものではなかったのだろうか

この視点から現実に目をやると、何ごとも理解することなく、流れているという印象が強い

無気力になり、そもそも「もの・こと」を理解しようとする意思さえも失っているように見える

残念ながら、その印象は強まるばかりである









2022年9月14日水曜日

コリングウッドによる自然(11): ピタゴラス学派(4)

































今朝はなぜか早く目が覚めた

なぜ目覚めたのかを確かめるためテレビを付けると、以前に観たことがあるヨーロッパ空の旅が流れている

丁度、アンボワーズ城、アンジェ城などが出てきて懐かしい

それからチャンネルを変えると、ヨーロッパトラムの旅

こちらはポーランドのクラクフで、観たような気もするがやはり懐かしい

もう10年以上前のことになるが、街を歩いた時に何とも言えないタイムスリップしたような感じを味わった

だが、画面からはそれを感じることができない

クラクフがそんなに変わるとは思えないので、やはりその中に入らなければ駄目だということだろうか

興味深い時間ではあったが、早く目覚めた理由を見つけることはできなかった

さて、今日もコリングウッド(1889-1943)である


このところ問題としている「内在性」と「超越性」は相互に他を内に含むという議論

プラトン(427 BC-347 BC)は当初、形相を超越的なものとしたが、後に超越性と内在性は絶対的な違いではないとした

そのことに気づく切っ掛けが、1世紀前の南イタリアエレア出身のパルメニデス(c.520 BC-c.450 BC)であった

プラトンは、この先人に敬意を表するために対話篇『パルメニデス』を書いたのである

この中で、若きソクラテス(c.470 BC-399 BC)は形相の内在説を唱え、それを具現するものとの関係を「分有」という言葉で述べる

これに対してパルメニデスは、分有するためには形相が分割可能でなければならず、形相の単一性も放棄することになると答える

困ったソクラテスは超越説を出し、「模倣」という言葉を用いたのである

しかし、内在性(分有)を超越性(模倣)に換位しても問題解決にはならない

パルメニデスの議論は、相互に排除する内在説と超越説に打撃を加える

そうだとすれば、プラトンの形相説は破綻したと考えがちだが、そうではないとコリングウッドは言う

パルメニデスのポイントは、形相説を内在性を表す言葉で表現すれば超越性を含むことになり、その逆も真であるということであった

初期のピタゴラス学派が内在説を唱え、プラトンは超越性との違いを明確にしたが、後に両者は相互に依存するものであることに気づいたのである