感覚的世界では、ある事物の全体的本性は一度には認識されない
例えば、動物は寝たり起きたりするが、その2つを同時に認識できない
時間を変えなければならないのである
しかし、叡智的世界においては、すべての本性を同時に認識できる
例えば、三角形の特質は如何なる時にも表れているので、一度にすべてを認識できる
無時間的自己充足の「動く影」が叡智的世界を特徴付ける時間の持続になる
もし自然界が時間と同じくらい古く、ある瞬間に存在するに至ったのでないとすれば、なぜ自然界はそれ自身で存在していると見做してはならないのか
なぜその外に創造者を探さなければならないのか
『ティマイオス』は、全自然界は成る世界であり過程であるので、原因がなければならないと答える
この議論に対してカント(1724-1804)であれば、それは詭弁であり弁証法的であると答えるだろう
その理由は、ある現象を他の現象と結び付けるための範疇を誤用しているからである
原因と結果は、一つの生成過程と他の生成過程との関係であり、現象の全体と現象(生成)でないものとの関係ではないのである
カントから見れば、すべての生成には原因があるというティマイオスの主張は曖昧である
18世紀のデイヴィッド・ヒューム(1711-1776)は、原因とは結果に先立ち、必然的にそれと関係するものとして確認した
カントの批判は、18世紀的意味における原因の枠組みの中でだけ有効である
しかし、ギリシア人にとっての原因は、「なぜ」という問いに対する答えを与えるものである
周知のように、アリストテレス(384 BC-322 BC)は、質量因、形相因、作用因、目的因の4種を区別した
これらのいずれもが、時間的に先立つ出来事と見做されるものではない
新しい有機体を生み出す作用因は発生という出来事ではなく、行為を行った両親とすれば、現象界の外に原因を求めることが間違いにはならない
カントは、悟性が自然を作るという独創的な解を出した
この問題は、自然が自ら説明せず、説明を要求する事実の複合態として現前していることを感じると、問われなければならないものである
その方法として、事実と事実の関係を示すこと、一つの事実を残りの事実との関連で説明すること
もう一つは、様々な事実はなぜ存在するのかを説明することである
これこそ、カントが「自然の形而上学」と呼んだものであり、『ティマイオス』の方法である
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