今朝は暴風雨のため、風の音で目覚めた
珍しいことである
この嵐で秋の気配が消し去られたような感じがする
今日もコリングウッド(1889-1943)のお話に耳を傾けることにしたい
昨日の最後にカント(1724-1804)の「自然の形而上学」が出てきた
それで思い出したのが、フランスの学会でお話した高名な科学者から、カントやフッサール(1859-1938)は科学者の必読書だと助言されたことである
こういう言葉が科学者の口から普通に出てくる国の科学を取り巻く文化を思い、なぜか嬉しくなったのである
今日はその記憶が前に進むのを助けてくれそうな予感がする
感覚的世界の存在を説明するために、なぜ創造主たる「神」を持ち出さなければならないのか
ティマイオスにとって、形相の叡智的世界は存在しなければならないし、「神」も存在しなければならない
ただ、その理由を語っていない
後にアリストテレス(384 BC-322 BC)が説明している
形相とは変化の源泉すなわち作用因ではなく、他のところで起こった変化を制御するだけである
形相は基準であり行動の主体ではない
そのため、この世界における生命と運動の源泉は他のところに求めなければならない
それはこの世界には属さない永遠の主体で、「神」という名に相応しい
次にティマイオスは、神がなぜ世界というものを創ったのかと問う
それは、神が善であり、善の本性はその外に流れ出し、それ自身を再生産することだからである
善きものは、その善を独占的に享受することに満足せず、他に分け与えずにはおかないものなのである
であるとすれば、善を分け与えるべき何ものかが存在していなければならない
それは、形相すなわち善を受け取る可能性のある非形相的な混沌に他ならない
デミウルゴスの創造的行為は絶対的なもの(Creatio ex nihilo)ではなく、手本を前提にしている
手本となる形相が、写し取る行為の前に存在しているとすれば、その相関概念である物質も存在していたと考えられる
とすれば、ものを製作するとは、形相を物質に押し付けることになる
ここで注意しなければならないのはギリシア的創造観念と、キリスト教とともに生まれた絶対的創造とを区別することである
近代的な見方でプラトンを捻じ曲げてはならないということである
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