カフェ/フォーラム・ウィークを終え、アトリエに戻った
気持ちがリフレッシュしているのを感じる気持ちの良い朝である
これがいつまで続くのだろうか
今日は、今回のベルクソンカフェ+カフェフィロPAWLで取り上げた「幸福」について私見を述ることにしたい
カフェでその概略については触れたのだが、まとめには入っていなかった
それはこういうことである
「幸福」とか「幸せ」というような言葉は、日常的によく耳に入ってくる
しかし、よく聞いてみると、話している人が何を指して言っているのかよく分からない
しかも、人によってそれが違っているように見えることもある
殆どの人が何気なく使っているのである
この春、車を運転している時、次のように考えると「幸福」の問題がスッキリすることに気付いたのである
その元になっているのは「意識の3層構造」理論である
これは、意識を3層に分けて考えるといろいろなことが整理できるだけでなく、我々の日常をより善いものにできるという理論である
以下のエッセイや『パリ心景』に詳しいので、参照していただければ幸いである
「意識の第三層」、あるいはパスカルの「気晴らし」(2016.7.9)
これによれば、第1層は日常生活で使われる意識のレベルで、所謂思考が行われておらず、殆どの場合、受容と反応の中にある
第2層は仕事で使われる意識のレベルで、普通は第1層とは区別され、それぞれの領域の中での思考は行われるが、技術的な内容に止まることが多い
第3層は上記2層から離れた状態で働くレベルで、人間として求められる思索や領域を超えた思考、我々の存在を含めた世界(le monde)に関わる観想などが行われる空間である
これはあくまでもわたしの意識を見た時の理論なのでその普遍性は分からないが、その範囲で言えることは、第2層と第3層の間の壁は厚くて高いということである
従って、第3層の思考の重要性に気付けないことが多いのである
この理論から「幸福」を見直すと、次のようになる
世に何気なく言われている「幸福」は、第1層での感情を言っているのではないか
その他に、それぞれの職業における成功が齎す感情があるかもしれないが、これは第2層のお話ではないか
この2つの問題は、持続性がないということだろう
そして、以前にマルセル・コンシュ(1922-2022)の「わたしは幸福ではなく真理を求めてきたが、それにもかかわらず至福の時を過ごしてきた」という言葉を聞いたことがあった
その後、アラン・バディウ(1937- )が「真理に至ることこそ幸福なのだ」と言っているのを聞き、コンシュさんの経験は理に適っていると理解したのである
同時に、この幸福は第3層での活動が齎すもので、持続性を伴うものではないかと考えるようになった
つまり、幸福にもいろいろな質があり、3層構造理論から考えると幸福のそれぞれの局面がより明確になる
古代ギリシアの哲学者エピクテトス(c. 50-c. 135)は、自分に依存するもの(自分がコントロールできるもの)とそうでないものを識別せよと言った
自分や肉親の肉体的な問題(生死など)、社会的、物質的なもの(富や名誉など)は、自分には依存していない
自分がコントロールできるものは、唯一、自らの精神である
従って、その精神を充実させることが幸せに繋がるという考えであった
これは、第3層の幸福を求めよ、そこにしか幸福はないと言っているように見える
今回カフェで取り上げたバディウさんの幸福論もこの理論から見ると、その輪郭がより明確になるのではないだろうか
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