前回見たように、アリストテレス(384 BC-322 BC)にとっての自然は、イオニア学派やプラトン(427 BC-347 BC)と同様、自ら動く事物の世界である
この動きは、17世紀的な慣性によるものではなく、自発的運動による
ある変化が次の変化に繋がるが、それぞれの変化が次の形態の可能態(デュナミス)になる
ただ、これは進化を意味しない
なぜならアリストテレスは、自然の世界の変化は永遠に繰り返す循環的な構造を持っていると考えていたからである
自然が自ら動くものだとすれば、自然の外に作用因を求めることは理に適わない
ただ、自然が存在する以前に時間が存在したとすれば、そのような作用因も想定できるが、アリストテレスはそうは考えない
プラトンの『ティマイオス』と同じ考え方である
すなわち、この世界は自ら原因となり、自ら存在するものである
この考え方は、アリストテレスを唯物論者の仲間に入れるように見える
しかし、『形而上学』では全く新しい議論により「神」が再び宇宙論に導入される
物体は運動の内に在り、何らかの方法で運動するものでなければならない
その方法を自然法則と呼んでいる
それは方法の大体の性格を表現するもので、法則の制定者を考えることにはならない
しかしギリシア人にとっての自然は、熱意とか衝動とか傾向という特徴を持っていた
種子は芽を出し、若い動物は成長、発達し、大人の大きさと形になる
可能態とは、それが現実態(エネルゲイア)に向かう時に力となる衝動の存するところである
この衝動という概念は、自然の過程が目指す目的を想起させる(目的論的含意と持つ)ため、近代科学からは擬人的だとして排除された
種子の衝動を意識的な意志と同一視すれば擬人的だが、無意識にそうしようとしている可能性は否定できない
発達という概念は唯物論には致命的である
なぜなら、発達とは非物質的な原因を内に含むからである
種子が植物へと発達するのは物質的ではない何か、すなわち植物の形相のためであり、植物のプラトン的イデアである
それは形相因であると同時に目的因でもある
ここでアリストテレスはプラトンを超える
イデアに導かれる力を、イデアによって呼び起こされるのではなく、イデアとは独立に存在しているとしたのである
この力が生まれるのは作用因による
また目的因は、それが支配する力の向きを定めるだけではなく、それを引き起こすものと考えている
目的因は同時に作用因なのだが、それは非物質的なものである
種子は植物になることを「欲する」が故に成長する
「欲する」などという言葉を使うことができるのは、植物が知性や心は持っていないものの、魂、プシュケーを持ち、目的を認識してはいないが欲望や願望を持っているからである
形相とは、このような願望の対象である
願望の対象であることによって、他の事物に運動を引き起こすものである
この願望は、事物自身を形相に一致させ、できる限り形相を模倣したいという性質を持っている
形相とは、自らは動かずに自然の世界を最初に動かすものなのである
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