2022年10月15日土曜日

コリングウッドによる自然(22): アリストテレス(4)その神学


























今朝テレビを付け、さて今日の日美は何かなぁなどと思いながらチャンネルを変えた

しかし、違う番組をやっている

暫くして、今日は土曜だったと気が付いた

かなり前から感じていることだが、時の流れが悠々としているのだ

先日のカフェ/フォーラム・ウィークなどは、ひと月ほどに感じられた

これは非常にうれしい感覚であるが、その理由は分からない

想像にしか過ぎないが、FPSSで聞いた変性意識(瞑想による)の中に長い間いるせいかもしれない

ところでこの変性意識、英語では "altered state of consciousness" となる

この言葉であれば、40年以上前からわたしの中にあった

マンハッタンに住んでいた1980年、Altered States という映画を観ていたからだ

こちらは幻覚剤などを使っての変性意識ではあったのだが、、

今朝は思わぬところから過去と繋がってくれた



さて今日も、コリングウッド(1889-1943)によるアリストテレス(384 BC-322 BC)である

プラトン(427 BC-347 BC)は『ティマイオス』において、永遠の思惟者、主体、精神としての神と、永遠の非物質的な形相を区別した

プラトンの神は形相を思惟する

アリストテレスによれば、神と形相は一つのものである

形相とは神が思惟するための方法であり、神の思想の明確な表現である

プラトンにおいては、精神活動から分離された純粋な客観物として形相を捉えているが、それに対する議論がある

しかし、アリストテレスによる思惟する神と形相の同一化は、この問題を回避する

『ティマイオス』のプラトンは、神をその創造的な意志の行為によって自然の作用因とし、形相をその静的な完全性のために目的因とした

これに対し、アリストテレスは神と形相を同一視したので、自らを認識する自足的活動を持つ不動の動者(unmoved mover or prime mover)を想定する

その活動は、それ自身の思惟の範疇である形相を思惟することで、最高にして最上のものであり、全てのものにそこに向けての願望と努力を吹き込むものである


アリストテレスの神は世界を愛さず、むしろ世界が神を愛する

世界を動かす愛は、我々に対する神の愛でも、我々相互の愛でもない

一方的な神に対する愛なのである

アリストテレスの愛は「エロス」であり、プラトンの『饗宴』で論じられたところである

すなわち「エロス」とは、不完全なものがそれ自身の完全性を求める憧憬を意味している

より優れたものに対して、より劣っているものが感じる上向きの志向を持った愛なのである

これに対して、キリスト教徒の愛は優れたものがより劣ったものに感じる下向き、あるいは恩恵的な愛である「アガペー」である

つまり、アリストテレスは神が世界を愛さないとすることによって、神はすでに完全で、より善きものへ向かう志向を持たないことを言おうとしたのである


さらにアリストテレスは、神が世界を認識することを否定し、神が意志をもって世界を創造したとか、摂理を持っているというようなことを否定する

そうすることにより、神は見守るものであり、許すもの、さらに責め立てるものと考える必要がなくなる

しかし、神は世界の生命を見守り、歴史の過程を支持し、最終的には彼自身との一体化に至ると考えることも可能で、それなしには神というものを考えることもできない

アリストテレス神学における神の自己認識が神の理性(ヌース)の認識を意味し、それは形相という構造を持っている

我々も理性的存在であり、ヌースに関与しているかぎり、我々の自己認識や形相認識は神の生命に関わることで、我々を神の自己認識の圏内に導くものである









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