2022年10月25日火曜日

コリングウッドによる自然(31): ルネサンス期の自然観(7)
































今日はガリレオ・ガリレイ(1564-1642)である

ケプラー(1571-1630)は、「質的変化を生み出す活力という概念を、量的変化を生み出す機械的エネルギーに置換すべきだ」と言った

しかしケプラーにとって、それは脚注のようなものであった

ガリレオにとって、それは明晰に把握された原理であった

彼はこう言っている
哲学は、宇宙という我々の眼前に広がる巨大な書物に書かれている。しかし、我々がその言語を学び、書かれている文字を知らなければならない。それは数学の言葉で書かれており、文字は三角とか円とか他の幾何学的図形である。その手段がなければ、一言も理解できないのである。
その意味は明快である

自然の真理は数学的事実の中にある

自然において実在的で可知的なものは、測定可能で量的なものである

色や音などの質的差異は、自然界には存在しない

それは我々の感覚器に自然物が作用した結果、我々の中に作り出された変化である

ここに心に依存する二次的な性質が花を咲かせる

イギリスの哲学徒は、それがジョン・ロック(1632-1704)の発明だと思っていて、遠い昔にガリレオが教えていたことに気付かない


ガリレオにとって、二次的性質は単に一時的性質に依存するだけではなく、客観的な実在を欠いている単なる見せかけなのである

従って、ガリレオの世界は純粋な量の世界である

そこに生あるものや感覚されるものが侵入することにより、多様な質的側面が現れるのである

そのように見られる自然は、一方では創造者の神に対し、他方では人間に対して立っている

ガリレオによって、神も人間も自然を超越していると見られている

もし自然が量だけから成り立っているのであれば、質的な側面は外からやって来る

それは人間の心によって自然を超越するものとされることによって

しかしもし自然が生きる有機体と見做されないならば、それは自己創造的ではなく、それ自身以外の原因を持たなければならない












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