2019年4月30日火曜日

天空から地上へ



座ってばかりの生活だと体が固まってくるようだ
今朝は荒れている庭の草刈りをやる
少しだけ片付いたが、まだまだだ

丁度草刈りをやっている時、思いもかけず荷物の配達をする人がこちらに駆け寄ってきた
これは生活をしている中の一つの風景という感じがした
ベルの後のドア越しには何度もあるが、景色の中の瞬間はこれまでなかったのではないか

そんなこともあったのだろうか
これまではぼやっと眺めるだけだった土間のようなところの活用法が浮かんできた
天空から一瞬地上へ、である

ところで、山の頂を覆っていた白は、翌日には80%は消えていた
やはり春のようである






2019年4月28日日曜日

響き合いの朝



このところ外からは単調に見えるだろうが、内から見るといろいろな動きがある日常である
まだいろいろな動きが別々のところで起こっているが、少しずつ絡み合いが見え始めている
それはよい眺めである


今朝は寒かったのだろう
庭の枯れた草の上に霜が降りていた
燦燦と輝く朝日を受け、茶色の草の間から緑の小さな葉が見え始め、眩しい
遠く目をやると、少し前には山肌が見え始めていた頂がふんわりした白で覆われている
その響き合いが心地よい朝である





2019年4月21日日曜日

この身を解放する二つの目



昨日で4月の活動を終えた
10日ほどの期間ではあったが、非常に長いものに感じた
先日の会話の中に、年を取ると時の流れが速くなるとよく言われるが、という言葉があった
わたしの場合、どうもそうではなさそうだ
今回も始める前とは何かが変わっているのだろう

以前、「100歳からものを観る」ということを話題にしたことがある
50歳を過ぎたころから視点がどんどん先に行き、100歳の地点から今を観ている感覚になった
今を生きている自分はここにいて、それを観ているもう一つの目が遥か彼方にあるという感覚だ
その目にとっては、今の自分がこれから歩む道はすでに経験済みになる
したがって、その道はまったくの新しいものなのだが妙な安心感があるのだ
何せ、すでに来た道でもあるからだ

上の経験は時間軸における感覚が問題になっている
今回、空間における移動としてISHE研の活動を捉えていることに気が付いた
天空から降りて、地上の生の世界に生きている方々と接触する機会と見ているようなのだ
水平と垂直の視線がそこで交差している 
天空にある目は永遠の命を持ち、地上にいる自分を見ているので精神に安定を齎している


時間と空間を超えたところにもう一つの目を持つこと
それだけで異所に二つの目があることになる
この世界に完全な自由などあり得ないが、それらの目はこの存在を解放しているように見える
ほんの少しだけではあるのだが、、






2019年4月20日土曜日

公開講座『ルカーチの存在論』で意見交換する



本日は午後から公開講座『ルカーチの存在論』に招かれ、免疫と認識について話をした
ISHEの催し物に参加されている方からのお誘いであった
今年で29周年という歴史ある会で、会員は約50名
月に1度研究会を開いていて、毎回10~20名の参加者とのことであった
今回は1時間ほど話をした後、実に多様な質問が2時間近く続いた

例えば、生物の部分あるいは進化の早い段階の生物における知性とか意志をどう見るのか
これまでにもよく聞かれた問題だが、定義をどうするかで大きく変わるのではないだろうか
この問題、自分の中でもう少し考える必要がありそうだ

免疫を普遍的な認識として捉えた場合に現れる現代的な意味についての問いもあった
そうすることで、何がどう変わるのかということだろう
これは前段をもう少し思索しなければ明確には答えられない
これからの課題としておきたい
いずれにせよ、次々に考えるべき問題点が出てくることに驚く
今年はその思索に充てることになるだろう


懇親会ではこれから発表される方々の話を伺う
また、中上健次を研究されている若手と人生の歩み方という視点から話す機会があった
わたしのことを、旅人型の人間ですね、と診断

その上で、科学を終えた後に少し違う視点から科学について考え直すこと
そして、これまでの思索の蓄積を一般に向けて目に見える形に纏めることの重要性を指摘

その点については意見の一致を見た
何かいまの歩みに励ましを貰ったような気分であった
科学の外にいる人の方が、科学の状況を冷静に見ているといった印象である

纏めの作業はすでに船出しているものの、どの港に辿り着くのかは神のみぞ知るである
何とか難破しないように、細心にして大胆な旅にしたいものである






2019年4月19日金曜日

2年半ぶりの再会を愉しむ

  (左から)垣生、葛西、奥村の各先生(順天堂大学)


今日も日中は仕事に明け暮れた
夜にはほぼ2年半ぶりになる再会が待っていた
前回は以下の記事にある

 科学を哲学する夕べ?(2016年11月15日)

奥村先生には所用の前のお忙しいところ、顔を出していただいた
久し振りにお元気な姿を拝見することができ、幸いであった

今夜は垣生先生からの質問が多かったようだ
何もしないような生活の中で一体何をやっているのかに疑問を持たれたからだろう
それに対して、真面目に答えていたように思う
その内容はここでも取り上げていることで、多くの方の役に立つのではないかと考えている

その他、研究面でも興味が共通するテーマがあることが分かった
重要な問題なので、次にお会いする時まで考えをもう少し纏まりのあるものにしておきたい
その時にまた議論できれば幸いである

本日は連日の仕事でお忙しいところ、貴重なお時間を割いていただいた
改めて感謝したい






2019年4月18日木曜日

「新・正午浅草 荷風小伝」を観る



午前中は仕事、午後から観劇に出かけた
劇団民藝による「新・正午浅草 荷風小伝
先日街を歩いている時、ポスターが目に入った
荷風生誕140年、没後60年を記念しての公演らしい

会場に入って驚いたのは、ご老人の男女で溢れていたことだ
このような状況に身を置くことはあまりないので、驚く
その中に入っている自分も外から見ると馴染んで見えるはずなのだが、主観的には全く違う
なぜか気が滅入る景色であった

舞台の方も主人公は老人となり、亡くなるまでの荷風である
芝居も淡々と進む
カタルシスも得られない
こちらも気分を解放してくれなかった

後で気付いたことがある
それは、会話が日常的なことで埋まっていて、第三層に至る言葉が聞けなかったことだ
ひょっとすると、欲求不満の原因はその辺りにあったのかもしれない
最近、感受性がこのように変化したようで、今のところ手の施しようがない





2019年4月16日火曜日

徹底的にぼんやりできず



今日も朝から仕事に出かけるもペースが落ちていた
これまでの疲れが出てきたのかもしれない
そう思い、デジュネの後、徹底的にぼんやりしようと思い、久ぶりにここに来た
空は完璧に晴れていたが、残念ながら風が出てきて寒くなったので1時間足らずで終了
明日以降のお楽しみとなった





2019年4月15日月曜日

学友との恒例の夕べ



朝から用事と仕事をやり、夕方から学友との会食があった
知らないうちに恒例の会となっている
普段はお昼なのだが、今日は仕事があったためこの時間になったようだ
お忙しいところ、ディオゲネス状態になりつつある者にお時間を割いていただき感謝したい

皆さん、健康を含めたこれからの生活を真面目に考え、準備しているようであった
わたしは能天気で、殆ど考えないので困ったものである
日本に帰るといつも感じるのだが、テレビから雑誌、本に至るまでその話題で溢れている
身体的、現世的なものに重点が置かれ過ぎていて、精神的なものの扱いが少ない印象がある
何とかならないものかとも思うが、それが日本なのだろうか

いろいろな話題が出てきたので覚えきれないが、今回も楽しむことができた
又の機会にお会いしたいものである






2019年4月14日日曜日

春の講演のお知らせ



サイファイ研ISHEの今年前半の活動に二つの講演が加わった

● 一つは、ISHEの催し物に参加されている方が主宰されている会に招かれたもの

公開講座『ルカーチの存在論』キックオフ集会
日時: 4月20日(土)14:00~
場所: 中央大学駿河台記念館
演題: 免疫から認識を考える
会費: 無料

● もう一つは、第190回日仏生物学会での特別講演
これからどのような話をするのか考えなければならない

日時: 6月8日(土)14:00~
場所:東京女子医科大学

詳細が決まり次第、この場に掲載する予定です
よろしくお願いいたします





2019年4月13日土曜日

仙台で恒例の旧交を温める



今日は、このところの恒例となっている旧交を温める会が仙台であった
田村、島、小林の三氏との会食で、いつものように愉快な時間となった
来年もこのような時間を持ちたいものである
皆様お仕事に忙しい立場である中、お時間を割いていただいた
改めて感謝したい

お話を伺っていると、青年研究者だと思っていた方々が次々に退職を迎える年齢になっている
わたし自身は時の流れを感じていないせいか、驚くことばかりであった
しかし、現世における時は確実に流れている

そして、研究の世界も世知辛さを増している
このような状態であったならば、そこには足を踏み入れなかっただろうと思うことばかりだ
昨日の話に絡めれば、研究者が完全に挑発され、駆り立てられていて集立の構造の中にある
それでもその中で生きていかざるを得ない

ハイデッガーによれば、そこから抜け出ることなどあり得ない
科学の外も科学を駆り立てる側に回っている
しかも、一つの可能性として残されている思索の道を行くことも極めて難しくなっている

人間を未来のない状態に置いてまで科学を発展させなければならないのだろうか
科学の道を歩むのもよいが、その前に科学を離れた全的な思索をすべきではないか
そして、科学の外にいる者も科学を全く新しい観点から見直す必要があるのではないか
科学を取り巻く状況の厳しさを改めて感じ取る時間となった


それから、日本社会が今のままの状態を続ければどうなるか
5年後、10年後は大変なことになっているのではないかという危惧の声も出ていた
日本では、本当に重要なことを真剣に考え、本気で議論するという習慣がない
日頃からどうでもよいことをさも大きなことのように語って時間を浪費している

そこから見える現実はどんなものなのだろうか
全く違う世界が存在し得るということにも気付かない可能性がある
これも昨日の話に絡めるとどうなるだろうか
そこでは真なるものは言うに及ばず、正しいことにも辿り着かないだろう

それは幸福なことだという皮肉な見方もあるが、実に恐ろしいことではないだろうか
この問題、日本社会にも科学の世界にも当て嵌まりそうである





第14回サイファイ・カフェSHE、盛況のうちに終わる



本日、第14回サイファイ・カフェSHEを開催した
ぎりぎりで申し込まれた方が3名もおられ、盛況となった
テーマは「技術(テクネー)から現代を考える」とし、ハイデッガーとともに考えることにした

ハイデッガーの文章、すなわち思考は我々のものとは異なり、執拗である
一つのことを相手にする時、何重にも言葉を重ねてその本体に迫ろうとする気迫に溢れている
したがって、我々もその影響を受けたのだろう
議論がいつになく盛り上がっていた

私が重要だと思ったのは、「技術との自由な関係」ということである
自由な関係を結ぶということは、どういうことなのか
それは、技術の本質に我々を開くこと、本質に迫ることである
本質を掴むことができなければ、技術と対等に付き合うことができない
この構図は技術に限ったことではなく、あらゆることに当て嵌まるだろう

しかも、表層的な本質、それは正しいものと言えるが、真の本質ではない
真なるものに辿り着かなければ、自由な関係を結ぶことができないという
正しいものとは、技術的で中立的なもので、科学が明らかにするもの
真なるものとは、本質的で、さらに問う思索を必要とするもので、哲学が要求される
そうわたしは解釈した
「科学の形而上学化」がどうしても必要になるのである

ハイデッガーは、技術が持つ意味を古代に遡って考える
それは何かを生み出すもの(ポエティックなもの)、隠されているものを現前させるもの
最も広い意味での「知」に関わるものだという
しかし、現代技術ではこの意味が失われ、人間を挑発し、駆り立てるものになっている
人間は「ゲシュテル」(集立:総駆り立て体制)の中に組み込まれてしまっている
人間は科学的・技術的世界に閉じ込められている
しかし、その中にいるとそれも見えない

そして、我々はそこから抜け出すことができるのかと自問し、それはあり得ないと答える
しかし、その閉鎖性をこじ開けることができるのは人間しかいないともいう
それでは人間に何ができるのだろうか
それは、閉鎖性とは何を言うのか、閉鎖性を支配しているのは何なのかということを熟考すること
それにより、人間と世界の関係が変わってくる可能性がある
原初的に考えられていないことをさらに一層深く考えることだともいう
最終的には、思索の道を進むことしか人間にはできないのだろうか
それによって何かが解決されるか否かは別にして


詳細は近いうちに専用サイトにまとめる予定です
お忙しい中参加された皆様に改めて感謝いたします


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第8回カフェフィロPAWL中止のお知らせ

4月17日(水)に予定しておりましたPAWLは主宰者の都合で中止といたします
急の決定でご迷惑をおかけしますが、ご理解いただければ幸いです
よろしくお願いいたします






2019年4月10日水曜日

久し振りの来客



昨日、久し振りの来客があった
じっとこちらを見ている
分かっているのだと思いたい

暫くすると急に横になり、寝返りを打つように1回転、2回転
背中でも痒いのではないだろうか
地面に擦り付けるようにしていた

春を思わせる姿勢であった










2019年4月9日火曜日

10年以上前の仏語ブログを読む



フランスに渡る前(2005~2007年)に書いていたフランス語ブログを読み直す
まず、よく書いていたことに驚く
そして、それ以上に、そのブログのファンになったフランス人がいたということにも

すっかり忘れていたが、そのやり取りも人間の中に入り込むところがあり、面白い
自分が書いたと思われるコメントも覚えていないが、こちらも大きな驚きであった
添削をお願いしたいところだが、、

ややセンチメンタルな気分である
こんな具合であった


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DANS LE HAMAC DE TÔKYÔ

J'OBSERVE AUTOUR DE MOI ET ÉCRIS CE QUI M'INSPIRE


dimanche, février 25, 2007



HOMO UNIVERSALIS


Après avoir passé plus de 30 ans dans le domaine de la biologie, je me demande si mes activités scientifiques ont joué un rôle d'enseignant pour me rendre sage. Et je pourrais dire : peu de rôle. Je me suis senti qu'il y avais un vide en moi. Je ne savais pas ce qu'il était. L'autre jour j'ai lu Pascal et ses plusieurs pansées m'a profondément touché. Par exemple,

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Honnête homme.
 Il faut qu'on n'en puisse ni "Il est mathématicien", ni "prédicateur", ni "éloquent", mais : "Il est honnête homme." Cette qualité universelle me plaît seule. Quand en voyant un homme on se souvient de son livre, c'est mauvais signe. Je voudrais qu'on ne s'aperçût d'aucune qualité que par la rencontre et l'occasion d'en user, "ne quid nimis", de peur qu'une qualité ne l'emporte et ne fasse baptiser ; qu'on ne songe point qu'il parle bien, sinon quand il s'agit de bien parler, mais qu'on y songe alors.

   "ne quid nimis" = rien de trop

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 Peu de tout.
 Puisqu'on ne peut être universel en sachant pour la gloire tout ce qui se peut savoir sur tout, il faut savoir peu de tout, car il est bien plus beau de savoir quelque chose de tout que de savoir tout d'une chose. Cette universalité est la plus belle. Si on pouvait avoir les deux, tant mieux ; mais s'il faut choisir, il faut choisir celle-là. Et le monde le sait et le fait, car le monde est un bon juge souvent.

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Je pense que j'ai trouvé une voie à prendre. C'est de regarder des choses d'une façon totale et de point de vue philosophique, et d'essayer de devenir "homo universalis", en d'autres termes, "homme d'esprit universel", "Renaissance man", "universal man" et "polymath", au moins "philomath". 

1 – 9 sur 9
Anonyme paule a dit...
Bonjour. J'ai aussi fait des études de bio parce que je voulais savoir le pourquoi et le comment de notre existence! J'ai appris beaucoup de choses et surtout que nous, humains, n'étions pas si importants et que nous ne connaissions qu'une infime partie de ce qui nous entoure. Une leçon d'humilité!!!
Pouvons-nous être "l'honnête homme " de Pascal aujourd'hui?
01 mars, 2007 00:36
Blogger paul_ailleurs a dit...
Bonjour Paule,
Merci pour vos commentaires. Je suis tout-à-fait d'accord avec vous et ma réponse à votre question est NON. Cela dit, je ne suis pas satisfait de la conséquence de l'activité dans le domaine scientifique : comme vous l'avez dit, on ne peut connaître qu'une infime partie de ce monde. Je voudrais savoir ce qui était et est dans ce monde d'une façon totale. Bien sûr qu'il est impossible de savoir tout, mais j'amerais prendre du recul et regarder le monde d'en haut, de point de vue philosophique, et penser au pourquoi (c'est presque impossible d'obtenir la réponse d'une activité scientifique) ou au sens de la vie. Je voudrais aussi connaître l'héritage de l'humanité inépuisable. Pour atteindre ce but, il faut avoir beaucoup du temps libre. Je suis en trains de réfléchir sur cette possibilité.
01 mars, 2007 12:22
Anonyme Paule a dit...
Rebonjour.Seconde leçon d'humilité! Comment pourrais-je avec mon cerveau tout à fait moyen appréhender toutes les connaissances? J'avais regardé, il y a quelques années, une émission sur les mathématiques que j'avais trouvé admirable. Je ne comprenais rien, mais j'étais captivée par l'intelligence de ces chercheurs. Il faut donc me faire une raison, je ne sais pas grand chose sur le comment!!!
Reste le pourquoi. Vous êtes un intellectuel, vous cherchez des réponses.
Je viens de lire la critique d'un nouveau livre "Les Arpenteurs du monde" de Daniel Kehlmann sur la vie du mathématicien Gauss et du géographe Humbolt où il montre la part d'ombre de ces deux génies. Nobody is perfect!
Seconde question: comment, cher Paul, en suivant Pascal, peut-on briller dans les dîners mondains?...(!!!)
01 mars, 2007 23:33
Blogger Liguea a dit...
Bonjour Paul_ailleurs! Ce n'est pas le temps qui m'a fait vous oublier mais l'oubli de la possibilité de "jouer" du temps... Bref, je suis trés heureux de vous retrouver à nouveau!
Pour votre questionnement, je doute que le trait de l'honnête homme soit celui d'une somme de connaissances. Aprés tout, connaître est-il seulement participant de l'universalité? Peut-être même, l'universalité et l'honnêteté humaine ne peuvent-elles se conjuguer que depuis le renoncement au savoir rationnel ou mesurable. Sans doute, la pertinence se doit-elle de demeurer dans la proximité de l'innocence afin d'irradier de sagesse celui qui parvient à renoncer au quantifiable; au prononçable. Parfois, je me dis qu'être "honnête homme", c'est simplement accepter sa finitude pour se laisser porter depuis sa propre intimité au monde à un sentiment plus vaste et plus immuable que toute science... Aprés tout, l'honnêteté pourrait être simplement le mode d'accueillir l'origine qui donne l'humain à être et savoir se satisfaire de la joie qu'apporte l'écoute du maintien de cette origine dans le coeur des hommes.
02 mars, 2007 23:36
Blogger paul_ailleurs a dit...
Bonjour Paule,
Je dirais encore une fois que ce serais impossible de comprendre tout. Je pense que suivre le pricipe de "Peu de tout" de Pascal des le début, c'est très dangereux, comme vous l'avez dit. Je n'oserais pas de le faire, à vrie dire. Mais après avoir fait ses études pendant longtemps, c'est normal de vouloir savoir le sens de ce qu'on a fait dans sa vie ou même le sens de la vie, avant de mourir. Je crois qu'avec cette connaissance, mais pas sans cela, on peut briller dans les dîners mondains. Ça, c'est ce que je voulais dire. Constitute-t-il une réponse è votre commentaire ?
04 mars, 2007 11:27
Blogger paul_ailleurs a dit...
Bonjour Liguea,
Merci pour votre revisite. Je me souviens très bien de vous. Je reviedrai plus tard.
07 mars, 2007 12:05
Anonyme paule a dit...
Bonjour. Les "dîners mondains" étaient une plaisanterie!!! Basée sur le fait que pour y briller il faut une culture même (surtout)superficielle. Chercher le sens de la vie est autrement sérieux. Mon avis :
" En ce monde, nous marchons
sur le toit de l'enfer
et regardons les fleurs" Issa (de mémoire!!!)
J'aime son humour. Il faut rire de tout, même de nos questionnements.
10 mars, 2007 02:51
Blogger paul_ailleurs a dit...
Bonjour Liguea,
Merci pour vos réfléxions sur "l'honnête homme". Je pensais initialement que Pascal avait référé ce mot au sens contraire aux specialistes. Mais en lisant vos commenataires, je dois réfléchir sur l'honnêteté moi-même.

Cet épisode m'a rappelé l'Alcibiade de Platon. Je me suis rendu compte que c'était le thème depuis que nous avions obtenu la conscience. En tout cas, ce que je voulais dire dans ce billet, c'est que je voudrais essayer de devenir ce genre de l'homme.
10 mars, 2007 11:00
Blogger paul_ailleurs a dit...
Bonjour Paule,
Merci pour votre précision. En effet, cette expression était difficle à comprendre. J'espère que vous avez compris ce que j'avais écrit.

Merci également pour m'introduire le haiku d'Issa :

 世の中は 地獄の上の 花見哉

J'aime aussi son humour et sympathise avec sa vie.
10 mars, 2007 11:21




2019年4月3日水曜日

サイファイ・カフェSHEとカフェフィロPAWL、迫る



サイファイ研ISHEの4月の催し物2つの開催が迫って参りました
以下のテーマで議論する予定です
興味をお持ちの方の参加をお待ちしております


● 第14回サイファイ・カフェSHE
2019年4月12日(金)18:3020:30

● 第8回カフェフィロPAWL
2019年4月17日(水)18:30-20:30 




2019年4月2日火曜日

第5回サイファイ・フォーラムFPSSのプログラム、決まる




第5回サイファイ・フォーラムFPSSを以下の要領で開催いたします

日時: 2019年5月18日(土)13h40~16h40
場所: 日仏会館 509会議室


話題と話題提供者:
1)「生き方としての哲学」はいま可能か: Pierre Hadot の「読むことを学ぶ Apprendre à Lire」と学問の古典(林 洋輔
2)現役科学者にとって哲学することは可能なのか(阿戸 学

詳細は以下をご覧いただければ幸いです

興味をお持ちの皆様の参加をお待ちしております







2019年4月1日月曜日

元研究室メンバーと会食




この週末は、札幌にいる元の研究室メンバーと食事をする機会があった
場所はすすきの
急に決まったことだったが、久し振りにざっくばらんな話に花が咲いた
お忙しい勤務の中、貴重な時間を割いていただき感謝したい

すすきのと言えば、学生時代によくお世話になったところだ
そして、学生時代だけであることにも気付いた
今回その中を歩きながら、次のような疑問が頭を巡っていた
なぜあれほど出かけて行ったのか、そして一体何を求めていたのだろうか
今となっては、ほとんど理解できなくなっている
その中を彷徨っている自分の姿を思い描くこともできないくらいだ
もう手の届かない大昔の出来事のように感じていた