第1章 なぜフランスで哲学だったのか
第2章 この旅で出会った哲学者とその哲学
第3章 科学という営み、あるいは科学者を突き動かすもの
第4章 科学と哲学の創造的関係を求めて
第5章 「現代の超克」のためのメモランダム
本の中には、わたしも「エッ」と驚いた遊び心の仕掛け?がある
第1章 なぜフランスで哲学だったのか
第2章 この旅で出会った哲学者とその哲学
第3章 科学という営み、あるいは科学者を突き動かすもの
第4章 科学と哲学の創造的関係を求めて
第5章 「現代の超克」のためのメモランダム
本の中には、わたしも「エッ」と驚いた遊び心の仕掛け?がある
今日は久しぶりの会食となった
写真右から、長谷川、片桐、西川の各氏
前回集まったのがいつだったのか調べたところ、2019年秋になっていた
コロナ禍とはいえ、久し振りである
今回は西川氏が旭川医大の学長になったばかりだったので、お祝いを兼ねての会食となった
長い間、前学長が「独裁的」な運営をしていたとのことでニュースにもなっていたようだ
長い間だったために独裁的になったのか
あるいは、独裁的な人物だったので長く留まろうとしたのか
いずれにせよ、現象をそのまま(科学的に)表現するとすれば、最初の表現となる
ということで、新学長には古い柵を解きほぐしながら、新しい大学を再建する仕事が課せられているようであった
前回も話題になっていたが、大学の目的が職業教育をすることに絞られていることに違和感があるというお話であった
その違和感にはわたしも共感するのだが、役人も含めた社会が要求しているのはそのレベルだという
遊びの部分がなくなり、広い意味での技術習得だけが教育の前面に出てきているようであった
我田引水ではあったが、拙エッセイ『免疫学者のパリ心景』には現在の流れに対するカウンターの視点がふんだんに含まれていると紹介させていただいた
学生さんや医療に携わる(若い)方にも読んでいただければ幸いである
日頃は頭の中で会話を繰り返しているが、偶には face-to-face の会もよいものである
また機会があればお会いしたいものである
ところで、今年はサイファイ研のカフェ、フォーラムを開くことができるだろうか
今の感触では秋にどうなるかというところだろうか
もう少し様子を見てみたい
免疫学者のパリ心景 ― 新しい「知のエティック」を求めて(医歯薬出版)
「医学のあゆみ」誌にシリーズ第104回のエッセイが出ましたので紹介いたします
「科学と宗教」を考えるためのメモランダム
医学のあゆみ(2022.1.8)280(2): 184-187, 2022
これからのためのメモとして纏めてみました
機会がありましたら、お目通しいただければ幸いです
「医学のあゆみ」誌に連載中のエッセイ『パリから見えるこの世界』の第103回が出ました
「科学の形而上学化」を文化に、そして今なぜ改めて「科学精神」なのか
医学のあゆみ(2021.11.13)279(7): 759-763, 2021
現代を取り巻く根本的な問題についても触れています
ご一読いただければ幸いです
「医学のあゆみ」のエッセイシリーズ『パリから見えるこの世界』第101回のご紹介です
徳認識論、あるいは「科学の形而上学化」の役割
医学のあゆみ(2021.7.10)278(2): 180-183, 2021
これまで折に触れて書いてきた「科学の形而上学化」という方法を認識論の枠組みの中で考えたものです
どのような認識生活を送るのがよいのかを哲学する「徳認識論」という領域を知り、新たな局面が見えてきました
お目通しいただければ幸いです
よろしくお願いいたします
今朝は曇っていたが、今激しく降り出し、遠雷が響いた
植物も日の光を浴びているときは辛そうだが、雨の日は優雅さを増すように感じられる
今日は、昨年前半の『パリから見えるこの世界』を紹介したい
年明けにOne Healthの問題に触れていたが、半年後にはCOVID-19を取り上げることになろうとは予想もできなかった
また、現代に横たわる問題についても考察を始めていた
医学のあゆみ(2020.1.11)272 (2): 194-197, 2020
医学のあゆみ(2020.2.8)272 (6): 563-566, 2020
医学のあゆみ(2020.3.14)272 (11): 1171-1174, 2020
医学のあゆみ(2020.4.11)273(2): 203-206, 2020
医学のあゆみ(2020.5.16)273(7): 615-618, 2020
医学のあゆみ(2020.6.13)273(11): 1115-1118, 2020
昨日はもう一つ、懐かしい経験をした
7年振りでお便りを送ってくれた方がいたのである
わたしのエッセイが100回を迎えたのを見たとのことで、金色の「100」が輝く素晴らしいカードが添えてあった
そこには分不相応な「極上の」という形容があり、その後に、すっかり雲の上の人になられましたね、と続いていた
退職後もまだ仕事をされている方から見ると、そう見えるのだろうか
わたし自身、天空に遊ぶとか地上に降りるなどと言うことはあるが、実際にどう見えるのかは分からなかった
やはり退職後も仕事をされている方から、「その境地」にはなかなかなれません、というコメントをいただいた
自分が書くものがどのような雰囲気を醸し出しているのか、実は全く分からないのである
このようなちょっとした言葉が自らを振り返るヒントとなる
懐かしくも貴重な言葉に触れた一日であった
「医学のあゆみ」誌に連載中のエッセイ第100回のご紹介です
「人類の遺産に分け入る旅」のこれまでを振り返る
医学のあゆみ(2021.5.8)277(6): 507-510, 2021
100回を迎えたのを機に、毎回取り上げたエピグラフからこれまでの旅を振り返ったものです
お読みいただければ幸いです
連載エッセイ『パリから見えるこの世界』第99回のご紹介です
プラトンの『テアイテトス』、あるいは「真に知る」ということ
医学のあゆみ(2021.3.13)276(11): 1085-1088, 2021
このエッセイとは直接関係ないかもしれないが、いろいろの方々と意見交換があった
そこで問題にされていたのは、「ものを考えなくなった日本人」ということに収斂する
指導層の言動から始まり、コロナ対策、その背後にある科学政策あるいはその不在、さらに中国の台頭などなど
現状を厳密に分析して実態を掴み、そこから広い視野で思考をしなければならないが、それができていない
前段は科学的態度とも言えるものであるが、そこからして駄目なので後段に行きようがないのである
さらに困るのは、その認識さえなくなっている、あるいは理由もなく現状に満足していることである
同様のことは、それを見て批判しなければならない側にも見られる
つまり、すべてが哲学的態度の欠如とも言える現代の病理の中にいるのである
意見交換の後、この問題についても考えを纏めなければ、という気持ちが生まれてきた
この週末は、シリーズ100回目に当たるエッセイを書いていた
昨日までは全く形が見えなかったが、今朝起きてから一気に出来上がった
締め切りが迫らないと自分の中で盛り上がらないのはいつものことである
しかし、これほどすんなり形が見えてきたのは初めてではないだろうか
今回はこれまでを振り返ることにしたが、全てを読み直して分析するのはこの時間では不可能である
そのため表層的な分析に止まったが、致し方ないだろう
これから、このような振り返りの時間を繰り返し持つことが重要になるのではないだろうか
今回がその第一歩となることを願うばかりである
今日も外で、と思ってシェードを開けると、雪が今季初めて、真面目に、横殴りで、降っている
これから春だと思ってスタートしたところだったので、出鼻をくじかれた格好だ
籠ることにしたが、年末年始で家はリラックスする場所に変容してしまったようだ
夕方、買い物に出るべく車を出したが、車庫を出たところで身動きが取れなくなった
雪かきをしたのは、うん十年振りではないだろうか
車を再び車庫に戻して終わりとした
手袋なしでは厳しいものがあった
ところで、「医学のあゆみ」に連載しているエッセイが近々100回を迎える
この機会に、これまでに取り上げることになった人物を調べてみた
その結果、99回までに登場した人は815名で、回数の多い方から列記すると以下のようになった
31回: アリストテレス
22回: デカルト
21回: プラトン
18回: ハイデッガー
15回: ソクラテス | ダーウィン
14回: モンテーニュ
13回: オーギュスト・コント | ベルクソン
12回: ニーチェ
11回: エピクロス | スピノザ | ヘーゲル
10回: カンギレム | マルセル・コンシュ | パスカル|ルソー
9回: ライプニッツ
8回: アインシュタイン | ピエール・アドー | カント | ニュートン | メチニコフ | エドガール・モラン | ラマルク
アリストテレスやデカルトがこれほど多く登場していたとは驚きである
日本に帰ってきた時には「新日本風土記」のような日本の原風景が見える番組を観るようにしていた
そこには古い日本人と繋がる伝統を大切に生きている人たちがよく出てくる
都会の生活からは消えている人の営みがそこにある
今朝、北前船の話が流れていたので観てから出かけた
多くの人がそういう生活を捨てて生きてきたのかもしれない
ただ、古い生活には日本を特徴付ける何かがあるような気もする
少し飛躍するが、日本の野党には古い日本人が持っていた要素を感じることが少ない
理論的に頭で攻めるやり方だが、体を感じることが少ないのだ
わたしの意識の三層理論に当て嵌めれば、第二層止まりで第三層が見えないのである
第三層とは人間そのものに係る思考をする層だが、その層が薄いというのがわたしの見立てである
実はこれは現代人一般の特徴で、与野党問わない現象なのかもしれないのだが、、
従って、今の政治には多くの人の心に訴えかけ、説得する力がなくなっているのではないだろうか
今回は滞在期間が長いので、普段はすぐに消えてしまう印象が長続きしているようだ
医学のあゆみ(2016.7.9)258 (2): 185-189, 2016
書き終わった(と思った)エッセイを読み返す
修正点が結構出てくる
文章の繋がり、あるいは論理の流れがスムーズでないところが残っているのだ
それは対象をよく理解していないことから来ることが多い
また、このようなエッセイを書いて思うのは、それが一つのテーマへの入口にしか過ぎないということである
これまでに触れたテーマや人物は相当の数になる
それだけの「ひと・もの・こと」が手元にあることになる
そこに入るための門が控えているということでもある
丁度、吉野の修行門のように
昨日は、ぼんやりしながら日本のドキュメンタリーなどの記録に触れていた
ひと日の終わりに、エッセイのテーマの候補が浮かんできた
それまで別のものを考えていたのだが、今一つ心から向き合うことができずにいた
それを取り上げるにはまだ早いという認識がどこかにあったからだろうか
新しい候補もそんなに簡単なものではなく、まだ早いと言うこともできる
ただ、こちらの方がそこに向かっていく力が強いように感じている
その問題を現段階ではどう考えるのかを纏めておいてもよいのではないか
そんなところに落ち着いている
振り返れば、エッセイ・シリーズも10年目に入り、もうすぐ100回を迎えることになる
始めた当初には想像もできなかった事態である
ただ、自分の感覚の中ではそんなに時間が経ったとは思えないし、特別の驚きもない
その時その時の問題意識を綴ってきただけなので、目は常に足元にあったからだろう
この間、テーマの選び方が変化してきたと感じた時があった
2019年から2020年にかけての頃である
それ以前のテーマは、自分の中にすでにあったもので、いずれ書きたいと思っていたものである
直ぐに見える貯えの中からその時の気分に合わせて気儘に取り出していたのである
その状態から、書き終わったらすべてが更地になるという感覚に変化したのが1年程前のことである
その時以来、前回書いたものとどこかで繋がっている何かを探すようになった
それぞれの関連性を考えることなくテーマを選んでいたそれまでとは大きく変わったのである
昨年亡くなった作家の古井由吉さんは、晩年の講演で次のようなことを語っていた
「作家は書くものがなくなってからが勝負である」
若い時は書きたいものが沢山ある
それ故、作家になるのだろう
しかし、年齢を重ねると書くことがなくなってくるという
そこからが勝負だというのである
一見書くことがなくなったように見えても、作家の奥底には沈殿している何かがあるはずである
作家の仕事はそれを引っ張り上げてくることではないのかと言っていた
その中に、その作家に固有のものが含まれている可能性が高いということなのだろうか
免疫の形而上学、あるいはスピノザと共に考える
医学のあゆみ(2021.1.9)276(2): 177-180, 2021
以前に触れた以下の論文ができるまでを書いたものです
Immunity in light of Spinoza and Canguilhem. Philosophies 5: 38, 2020
お読みいただき、ご批判をいだければ幸いです
2019年の「パリから見えるこの世界」の内容を紹介いたします
個人的には、つい最近のような、あるいは大昔に書いたような、そんな感じです
お楽しみいただければ幸いです
(75)シンポジウム「医学における人間」で、現代医学の課題を考える
医学のあゆみ(2019.1.12)268 (2): 166-170, 2019
(76)日常性と精神性のバランス、あるいはいま蘇るべき古代哲学の伝統
医学のあゆみ(2019.2.9)268 (6): 536-540, 2019
(77)病気とコスモポリタニズム、あるいは生の規範の作り変え
医学のあゆみ(2019.3.9)268 (10): 884-887, 2019
(78)CRISPR-Cas、あるいは免疫系と神経系を結ぶもの
医学のあゆみ(2019.4.13)269 (2): 179-183, 2019
(79)CRISPR-Cas、あるいは「獲得形質の遺伝」を再考する
医学のあゆみ(2019.5.11)269 (6): 506-509, 2019
(80)科学とメタファー、あるいはプラトンにとっての医学
医学のあゆみ(2019.6.8)269 (10): 830-833, 2019
(81)ハイデッガーによる人間存在、あるいは「真の人間に成る」とは
医学のあゆみ(2019.7.13)270 (2): 211-214, 2019
(82)エドワード・O・ウィルソン、あるいは生物界における利他主義
医学のあゆみ(2019.8.17)270 (7): 586-590, 2019
(83)リュシアン・ジェルファニョン、あるいは「古代に生きる」ということ
医学のあゆみ(2019.9.14)270 (11): 1099-1102, 2019
(84)哲学者ミシェル・セール、あるいは「橋を架ける」ということ
医学のあゆみ(2019.10.12)271 (2): 226-230, 2019
(85)生物における情報の流れ、あるいは情報の定義は可能なのか
医学のあゆみ(2019.11.9)271 (6): 625-629, 2019
(86)形而上学とは、そして科学におけるその役割を再考する
医学のあゆみ(2019.12.14)271 (11):1255-1258, 2019
長期プロジェの合間を縫って、今年最後のエッセイ(シリーズ第98回)を書いた
今回のテーマは、最近掲載された免疫に関する哲学的エッセイの紹介である
同時に、このような作業の過程で考えたことにも触れた
わたしにとって一つの区切りになるような内容を年の終わりに纏めることができたのは幸いであった
また、それが年の初めに人の目に触れるということにも感慨深いものがある
さて、今日はどのような一日として終わるであろうか
いつものように関心をもって注視したい