ラベル 実在論と反実在論 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 実在論と反実在論 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2021年4月11日日曜日

ハンス・ヨナスによるダーウィニズム



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ハンス・ヨナスがダーウィン主義の哲学的側面について書いているエッセイがある

ダーウィンがどんな哲学を持っていたのかというよりは、進化論が齎した考え方の変化についてのものだ

まだ途中だが、その中に次のような言葉があった

進化論はプラトン主義に抗するものであり、唯名論実在論に対する勝利であった

中世の普遍論争において、普遍的な概念、形相は実在するのか否かが争われた

その問いに対して、実在論者はイエスと答え、唯名論者は存在するのは具体的な個別のものであるとした

そして進化論もこの問いに大きな影響を与えたというのである

その結果、プラトンが唱えた形相・イデアという非物理的なものは存在せず、存在するのは物理的なものであるとされた

唯名論の勝利は、本質についての問いを外に置き、どのように「もの・こと」が動いているのかを問う方向に導いた

現代の科学が本質についての問いを出さず、メカニズムの分析に精を出すようになった理由がここにある

 

このような見方は今では一般的だと想像している

しかし、歴史的な背景を理解していなければ、何も考えずにそれが科学の進む道であると錯覚することになる

形而上学の領域に入るだろうが、科学が本質について問うことを止める必要はないという考えだって成り立つ

思想史の側面から科学を見直すと、こういう考え方だって生まれる余地がある

ずっと広い世界が先に見えてくるように感じる

普遍論争の言葉で表現すれば、わたしは唯名論だけではダメだと考えている普遍実在論者ということになりそうである

それは「科学の形而上学化」の精神の別の表現とも言えるものである


実在論と反実在論についてのかなり詳しい議論は、昨年プイヴェさんの『現代哲学』を読んだ時にも出てきていた

何のために読んでいるのか分からなかったのだが、こんな繋がりも生まれる可能性がある

何事も無駄ではないということか

暇になったら読んでみたい

 

実在論と反実在論(2020.1.30-2.6)

実在論の擁護(2020.2.7-17)

 

 

 

 

 

2020年2月7日金曜日

実在論と反実在論(6)



グッドマンの考えの一つの帰結は、いかなる「自然種」も存在しないことである
我々の分類に依存せずに実際の違いを識別できるものを自然種とすればだが、
この考えは唯名論になる
しかし、名前の下にものを纏めるやり方によって唯名論も多様になる

我々は、あるものがエメラルドであれば、それは必然的に緑だと考える
グッドマンが言っているのは、エメラルドの緑は我々の分類に依存しない現実と何の関係もないということである
何せ、我々のエメラルドが緑であれば、それはグルーなのである

存在論的範疇は存在しないのである
もし必要なら、分類されない、範疇化されない現実を維持することもできる
そこでは概念的システムが物の種類を切り取り、その意味では作り出していることになる

グッドマンは「世界を作っているものー物質、エネルギー、電波、現象ーは世界と同時に作られる」としている
予めそこに在るものなど何もないと言っている
その意味では、すべての種、現実のすべての分類は人工的なのである

最後に帰納について考えたい
もし、種が例外なく人工的で、性質がどこに属するのかは習慣の問題だとする
その時、帰納はものの現実を知る方法にはならないだろう
リチャード・ローティはそのことを「世界は失われる」と言った
反実在論者が勝利を収めるのである






2020年2月6日木曜日

実在論と反実在論(5)



連日のパリ行きであった
空き時間に巡った場所で興味深い宿題ができた
それが解けた時には触れることがあるかもしれない

それではグッドマンの話に戻りたい

グルーやブリーンという目が回るようなお話から何かを学ぶことができるのだろうか
非実在論者のグッドマンは、その意味するところをこう言っている
我々が真の範疇を発見するのを待っている出来合いの世界は存在しない
真理は、言語、イメージ、音など用いる記述システム間の調整、すなわち「修正」より重要ではない
現実は記述システムから独立しておらず、システム自体と同時に作られるのである

この見方には4つの原理が内包されている
1)存在論的多元論: 複数の世界が存在する
2)記述的不完全さ: どんな記述もすべての記述上の必要性を満たしているとは自慢できない
(だから、科学や芸術や哲学などでは記号システムを増やすのである)
3)意味論的(記述手段に関する)反実在論:「世界」とか「現実」という表現は常に記述システムに関連する
4)存在論的反実在論:一つだけの現実世界は存在しない
 =非実在論: 我々は一つの現実世界と対応することを強制されない

グッドマンは、世界を構築することはタダでもなければ容易なことでもないと主張している
我々はケーキや下手な絵を作るように世界を作るわけではないと彼は言っている
頭を過る一つひとつの理論や芸術作品や思想が世界を作るわけではない

世界の作成は妥当性と一貫性という基準に合致するとグッドマンは考えているようである
つまり、矛盾しないということである
そうだとすれば、そんなに多くの世界を作るのかと問うことができるだろう
決して多数の世界を作らなかったかと問うことさえできるのではないのか 
なぜなら、我々は一貫性があると完全に確信できる唯一の妥当な記号システムを持っているからである


(つづく)





2020年2月5日水曜日

実在論と反実在論(4)



今日は用事があり、パリへ
のはずだったが、その場に着くとランデブーは明日だという
キツネにつままれた感じで、元々のメールを読み直すと相手が正しかった
こういうことが稀ではなくなっているが、気持ちの乱れは全くない
ただ、自分の記憶に頼って主張し過ぎると、あとで恥ずかしい思いをしそうである


それではカラスの議論の続きを始めたい

ウィラード・クワインは、周りにあるすべてではなく、カラスという種についての「黒さ」が問題になるとした
そこから「自然の種」という概念が意味を持ってくる
これは実在するものの概念で、我々の精神はそれに従うが、その逆ではない

この概念は実在論を前提としている
カラスのような自然の種は、我々とは独立に存在するものを対象としていなければならない
我々に依存しないものを我々は知ることができることを前提としている
これは反実在論者が認めない点である

ものを特徴付ける時に我々が用いる分類に特別なことはあるのだろうか
実在論者は、それが実際に存在する違いに対応していなければならないと考える
ネルソン・グッドマンは別の分類を用いることができると言う
彼は色の分類を考えた

一つは、我々が普段使っている緑(green; vert)と青(blue; bleu)の分類である
もう一つは、グルー(grue; vleu)とブリーン(bleen; blert)という変わった分類である
1)グルーは、ある時点(t)以前に見た時に緑である、あるいはそれ以前に調べていないが青であるもの
2)ブリーンは、t 以前に調べた時には青である、あるいはそれ以前に調べていないが緑であるもの

t を来年1月1日とする
それ以前に緑だったエメラルドは、緑とも言えるしグルーとも言える
同様に、今年中に見た青い花は、青とも言えるしブリーンとも言える
来年の1月2日に初めてエメラルドと青い花を見た時には、それぞれがブリーンとグルーとなる

t 以前には色を特定できないことになる


(つづく)




2020年2月3日月曜日

実在論と反実在論(3)



今日は、現代哲学者を惹き付ける反実在論のもう一つの形についてのお話である

世界は我々自身あるいは我々の理論によって作られているという考えを擁護した人がいる
ネルソン・グッドマンである
これは客観性を問題にしたのではなく、その再定義に関するものである

我々が記号システムを用いることは、結局は「世界を作る」ことに帰する
グッドマンによれば、言語、芸術、科学理論に含まれる記号システムは作られた現実を十分に記述しない
少なくとも、これらのシステムを機能させる出来合いの企ては前もって存在しない

彼は、客観性は不可能であると主張する反実在論者であるとは名乗っていない
しかし、我々は科学的・芸術的活動により世界を作り、作り変えることを主張する非実在論者だと言っている
それが『世界制作の方法』(Ways of Worldmaking)で擁護した点である
さらに、帰納の謎について書いた中で、反実在論と非実在論を正当化する議論を展開している

対象D、範疇 x1,x2、x3...xn、特性Fがあるとする
帰納による推論は、範疇xnまで特性Fがあるとすると、xn+1もFを持つとする
時にはすべてのxに特性Fがあるとさえ推論する

例えば、50羽の(白)鳥が白いとすると、次の鳥も白いと考える
もし黒い白鳥に出合ったとすれば、びっくりして認識できなくなるかもしれない
帰納による一般化は偶然に過ぎないことになる

カラスのパラドックス」(ヘンペル)という状況がある
A)もしカラスであれば、それは黒い
B)もし黒くなければ、それはカラスではない
この二つは論理的に同等で、Aを認めればBを認めることになり、その逆も真である

ここで問題にされているのは、カラスの黒さである
世界に存在する黒くないもの(例えば、ティッシュ―、雪、セーターなど)を調べてカラスがいないとする
それがカラスは黒いということを確認するというのは奇妙ではないだろうか


(つづく)






2020年2月1日土曜日

実在論と反実在論(2)



実在論と反実在論の言葉の定義から始めたい
実在論とは、広い範囲の現実(実在)は我々の概念や理論などから完全に独立して存在しているとする見方
反実在論は、存在する少なくとも大部分は必然性を欠く概念や理論と関連しているとする立場
このような呼び名は最近のもので、分析哲学者によって使われた

それまでは、実在論と観念論の対立があった
観念論は、存在するすべては精神かその変容したものという考え方
観念論者は、精神や観念に依存しない世界は存在しないと考える
反実在論者も、精神(概念や理論など)から独立した世界は存在しないとする
観念論と反実在論との間に差がないように見えるが、あるという

観念論者は、すべての「もの・こと」の本質は心的あるいは霊的だと言う
しかし世界の在り方・本質は、我々の概念や理論には依存しないとする
対する反実在論者は、異なる社会実践から成る知的活動がすべての「もの・こと」の本質を決めるとする
つまり、観念論者にとって現実は存在するが、それは心的あるいは霊的な性質を持っている
しかし反実在論者にとっての現実は、我々が行う記述から独立しては存在しない

ヒラリー・パトナムは、次にように言っている
「世界はどのようなものからできているのか」という問いは、理論や記述の中でしか意味を成さない。世界に関する「正しい」理論や記述は一つ以上あるからだ。
彼は一つの相対主義を採用したことになる
絶対的な視点は存在せず、人間(のグループ)の興味や目的を反映した視点があるだけだと言う

さらにパトナムは言う
対象(もの)は概念的な枠組みから独立しては存在しない。我々がある記述の枠組みを導入する時に世界を切り分けて対象にするのは、我々なのである。
我々の言語で現実を切り取り、そこに含まれる対象を言わば作り出していることになる
この考えが現代の哲学者を最も惹き付け、駆り立て、人文科学にも広がって行った
これは学生にも好評だったようだ

何せ、そのものとしての現実が存在しないのだから、それに対峙する必要がなくなった解放感があったのか
それぞれが自己と自己の価値の創造者であると感じることができたのである
実在論者はしばしば「ナイーブ」だと言われ、反実在論者は真ではないものを発見するのに長けていた
この考えは芸術的創造にも模倣の要求からの解放という影響を与え、別の現実、超現実が提案された

反実在論者は、世界と世界を構成するものは社会的に構成されたものに過ぎないと主張する
これは20世紀後半に「ポストモダン」として流行することになった
現在フランス哲学の一部では、この考えは当たり前のように見える

反実在論者にとっての科学は、我々と独立した現実については記述しないものとなる
基本的に、在るがままの世界ではなく、社会的な要素と結び付いてくる
世界には社会的に構成された事実しかないとし、客観的な真理の要求を拒否するようになったのである


(つづく)






2020年1月31日金曜日

実在論と反実在論(1)



今日からは、実在論(Réalisme)と反実在論(Anti-réalisme)がテーマとなる
まず、「形而上学的目覚め」と題された一節から

この世界に目をやると、そこには自然のものがあり、人工のものがあり、人間がいる
仕事場があり、出来事がある
やらなければならない義務があり、価値がある
しかし、これらは本当に存在しているのだろうか

この世界という時、それはわたしの世界であり、あなたはそこに入ることができない
その逆もまた言える
わたしの精神と世界は一つのものであると言った場合、世界は精神の外には存在しないことになる
これは観念論の世界である
わたしの精神に表れたもの以外には何も存在しないとなると、独我論の世界である

これらは形而上学の世界である
哲学者は存在の問題に興味を持つが、我々の精神や言語や概念から独立した実在には興味を示さない
デカルト以来の近代哲学においてこの興味が先鋭化し、現代哲学では我々を追い詰めている

第二次大戦後、ポーランドの哲学者ローマン・インガルデンは『世界の存在をめぐる論争』を出した
世界の存在を自問するというのは不可思議なことではないか
そもそも論争など存在しない問題ではないのか
しかし、哲学は未だにその答えを持っていないのである

我々の精神や言語や概念とは独立に世界が存在しているかという論争は、実在論と反実在論の問題である
それは同時に現代哲学の中心的な問題なのである
ハイデッガーは哲学にとってのスキャンダルについて、こう言っている
それはこの問いに満足のいく回答を出していないことではなく、その問いに向き合ってさえいないことである

しかし、このようなどこにも辿り着きそうにない問いに向き合うことに、一体意味はあるのだろうか


(つづく)