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2021年6月18日金曜日

エンツォ・パーチさんの『現象学的日記』届く





 



 










イタリアの哲学者エンツォ・パーチ(Enzo Paci, 1911–1976)さんの本がフランスから届いた

Journal phénoménologique de Enzo Paci(2021; publication originale, 1961)


先日、初めてになるイタリア人が「現象学的」と名づけて書いた日記の仏訳が出たというニュースを見た

以前のブログやエッセイでも触れたように、「現象学」はわたしにとってのマジックワードになっている

わたしの中に現象学的な見方があるという指摘を受けたことがあるからである

早速注文したところ、意外に早く手元に届いた


パーチさんによれば、現象学という言葉はヨハン・ハインリヒ・ランベルト(1728–1777)によって最初に使われた

1764年のことである

現象学とは「ものそのもの」に回帰すること

表れている現象を見る前に判断することなく、そのものとして見、忠実に記述できるもの

それは主体、コギトに回帰するもので、人工的な主体ではなく真の主体に戻るものである

これをするためには、経験をする前にすべての知、すべての判断を一旦保留しなければならない

古代ギリシアの懐疑派が「エポケー」と言ったものである


パーチさんによれば、現象学は瞑想ではなく、鍛錬(exercice)を通して完璧を目指す禁欲主義だという

社会の変容に関わるものだという

日記とは、危機を生きる、弁証法の道を見付ける個人的なやり方である

コミュニティの批判であるが、それはそれぞれの個人の批判である


これからどんな省察が現れるのか、楽しみである






2020年4月3日金曜日

現象学とは(7)





特に現代フランスの現象学についてのコメント(つづき)

(3)ドミニク・ジャニコーは、『現代フランス現象学―その神学的転回』で次のことを示した

ルヴィナス以来、フランスの現象学はハイデッガーによって伝えられた曖昧さにより特別な転回をした
現象学的還元」は超越論的「我」を引き渡したが、現象学的贈与の中心にあるのは超越的なもの(神)である
これはジャン・リュック・マリオンミシェル・アンリジャン・ルイ・クレティアンなどにおいてのことである

目に見えるものが目に見えないものや不可視性におののく
存在が呼びかけになる
「復活」や「身体の栄光」という概念が、現象学的解析を神学的に上から決定する

注意すべきは、それは次のものではないことである
神の存在証明の妥当性についての問い、宗教的信仰のエピステモロジー、キリスト復活の信仰の合理性についての問い
また、エティエンヌ・ジルソンがやったようなキリスト教哲学の存在の根拠になるテーゼを擁護することでもない
寧ろ、現象学的描写の中心には、 「啓示」、「超越性」、「神性」が見られることを示唆するものである

しかし、この神学的転回の内に自らを認めない多くの現象学者には、この点への強い躊躇いがある
そして宗教哲学者も同様に、こう考えるかもしれない
「宗教的体験」という概念は、一般的な「体験」の概念より信用できるものではない








2020年4月2日木曜日

現象学とは(6)




特に現代フランスの現象学についてのコメント(つづき)

(2)現象学はしばしば、他の哲学的アプローチを排除するもののように見える

それは次のように理解される
もし現象学者が正しいとしたら、哲学における適切な方法は現象学の方法以外には存在しないことになる
例えば、意識生活の記述 、我々が知覚できるすべての基礎、「もの・こと」の理解など

現象学者は「現象学的還元」によって真の哲学的態度に入り、そのようにして現象の意味に近づくと考える
対象を取り間違えた探索の素朴さと不確実性を断ち切った方法なしに、一体誰が済まそうというのだろうか
本来の対象は、我々にとっての現実の意味を構成するものとしての意識の中身で、外部にあるものではない

これは次のようなことが言われたことを説明している
「形而上学が目的を見つけて以来、哲学は現象学の下でだけ真に追求できた」⧪
「本質的な部分において、現象学は20世紀の哲学の役割そのものを担っている」⧪

分析哲学者は、形而上学は終わるどころか非常によくやっていると考えている
なぜなら、多くの哲学者が形而上学の論文や本を書き、世界の殆どすべての大学で形而上学が教えられている
この流れの哲学者として、ピーター・ストローソンデイヴィド・ルイスデイヴィド・アームストロング
ジョナサン・ロウジョン・ホーソンピーター・ヴァン・インワーゲンフレデリック・ネフ、他多数

しかし現象学者の中には、そこに見方の間違いがあると考える人がいる
形而上学が終わる時、ある者は不幸にもまだそれをやっていると主張するかもしれないのである
しかし今日、現象学だけが「哲学的意図を哲学自体の完成へと到達させるのである」⧪

このようなコメントによって、分析哲学と現象学の間を溝を計ることができる
それが哲学的テーゼ間の論争ではなく、乗り越えることが難しい分裂に関するものであることも分かる
分析哲学者から見れば、現象学者は意識行為の重要性を強調し、問題の多い観念論へと向かうように見える
結局は月並みで難解な語彙と基礎的であるという思い上がりによる心理的描写に満足しないのではないか

現象学者にとっての分析哲学者は本物ではなく、真の哲学との関係を結び直すことができる転回をしなかった
対立するものの和解は非常に危ういように見える


ジャン・リュック・マリオンの言葉


(つづく)









2020年4月1日水曜日

現象学とは(5)




フッサールにより導入され、現象学者が発展させた根源的なテーマの一つは、「生活世界」(Lebenswelt)である
現象学の務めの一つは、科学とすべての人間的活動が生活世界からその意味をどのように引出すのかを示すことである
人間的活動の中には、芸術、宗教、文化的・身体的実践などが含まれる
生活世界の根本的な構造を記述し解析するのが、現象学本来の不可欠な仕事である

今日の、特にフランスにおける現象学とは何かをよく理解するために、三つのコメントが役立つだろう

(1)分析哲学と現象学の対立は明白である

ただ、分裂の起源に立ち還り、その妥当性及び分裂を乗り越える可能性を自問しようとしてもよいだろう
ブレンターノが現象学と同時に、分析哲学のある局面の源にいることに注意しよう
しかし、元々の親近性が100年以上前に形成された方法論的溝にあるものが何であれ、どの点で変わったのか見えない

現象学者と認知主義哲学者の対話が可能であるということは、認知科学の特定の理論について何かを語っている
しかしそれは、分析哲学と現象学の間に和解が進行中であることを意味しない
哲学的統合運動は多元的で包括的に見えるという点で好感が持てる姿勢である
今日において、この二つの姿勢は一般的に推奨されることでもあるからである

しかし、適用される哲学的テーゼと方法には疑義を呈しながらも、人間を完全に尊重することができる哲学
そこにおいては、二つの間の融和が広がることを望むことは、おそらく不可欠ではないだろう


(つづく)









2020年3月30日月曜日

現象学とは(4)



それでは、現象学で使われている方法とはどんなものなのだろうか
それは想像変更(variation imaginative)の方法である
想像力により、枠組みを変え、現象に異なる角度からアプローチしてそこに意味を見出すことだろうか
分析する際、ある特徴を除くが、そうすることにより対象をそのままの状態にして置く
しかし、他の特徴を除くと対象を破壊するだろう
そこから、その対象の本質的な何かを的確に指摘したことを我々は知るのである

それが種々の特徴が対象の本質に属しているという「本質直観」(intuition eidétique=形相的直観←エイドス)に導く
この本質は、本質を把握する中で一つのことを構成する意識の行為にしばしば依存している
従って現象学で最も重要なことは、「もの・こと」の成り立ちについての意識的活動の本質を抽出することである
それは知覚であり、記憶であり、判断などである

我々は「必然真理」(アポディクティックな真理)に辿り着く
それは必然であると見做され得るものである
例えば、人間は過去と未来を持つということ
あるいは、すべての知覚可能な対象は、ある時点で現れたものとは異なる面を持つというようなこと

我々は意識の行為により意図的に世界を対象とする者として、世界を超越する「超越論的自我」を発見するのである
自我が取り結ぶ関係は「間主観性」である
主観を持つ個人として、我々は公共の世界をどのように共有すればよいのだろうか

現象学者は、身体、言語、コミュニケーションの他のやり方の役割を検討する
この点は特にメルロー・ポンティにおいて重要である
インガルデンのような人は、美的経験などの経験の特別な形をよく研究してきた
また、どのように芸術作品が特別な経験に力を与え、同時に特別な経験が作品を生み出すのかについても研究した


(つづく)









2020年3月28日土曜日

現象学とは(3)+ COVID-19



現象学は特別な語彙を使うので、語彙を知らない人や混乱する人に分かるように現象学を提示するのは難しい
分析哲学との比較はここでも有用である
分析哲学者は、しばしば単純な文章で言うことができる命題の妥当性を検討することを提唱する

例えば、その中の一人は、名詞は指し示めされる対象と結ぶ因果関係のおかげで意味を持つと主張するだろう
他の人は、この考えは疑わしいか、間違っていることを示そうとするだろう
あるいはまた、分析哲学者は伝統的に神の存在に有利なこれこれの証拠が正しいかどうかを自問するだろう
「神」という言葉を含むすべての命題は最初から意味がないと判断するのでなければではあるが

対する現象学者は、「もの・こと」が我々にどう見えるのか、経験の中で我々にどう与えられるのかに興味を持つ
他の議論をすることによって議論の解析を目指すよりは、志向性の生を記述し、それを解釈しようとする
それは現象学者が議論しないということではない
例えば、フッサールの『現象学の理念』(1913)とラッセルの『心の分析』(1921)を交互に読むだけで十分である
方法と対象の違いが掴めるだろう

フッサールは「哲学的態度」を適用して、志向性の生の本質に至ることを可能にする
心理学に特有の自然主義的態度を超えるのである
ラッセルはヒュームのように、物理的因果の世界における心的生活の可能性について自問する
これは心の哲学の中心的テーマの一つになるものである

フッサールにとっての哲学の究極の目的は、新しい科学に至ることである
それは、対象の構成の在り方について志向性の生の面から自問しない科学とは異なっている
それでは思考や精神の性質それ自体に入り込むことができない
現象学の中心にあるのは、この志向性の生を記述することである
現象学者が分析哲学を単純で表面的だと考える傾向がある理由がそこにある

分析哲学は基礎を問うことを既定のものとは捉えないのだろうか
おそらく、志向性の起源を「問う」ことはできないのだろう
志向性の生の対象の記述と意識の動きにおいてそれを構成している主観的志向を記述することは分離できない
前者の志向(思考)する対象に関するものをノエマ、後者の志向(思考)に関するものをノエシスと言った

このような記述に努めることにより、「もの・こと」の本質的構造に辿り着くと現象学者は考える
心理学のエピステモロジーをやること、あるいは因果性と自由の違いを省察することなどで「満足」しないのである


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COVID-19 に関するフランスでの最新情報

外出制限と学校閉鎖の期間が4月15日まで延長された
いつまで続くのだろうか
日常生活のストレスは相当のものではないかと想像している

1)3月27日付政令により、3月17日から実施している外出制限の期限が4月15日まで延長
また、学校閉鎖期間も4月15日まで延長

2)外出制限期間中は特例外出理由として認められている理由以外の外出は認められない
特例外出以外の外出をした場合、特例外出であっても証明書を所持していない場合、罰金の対象となる








現象学とは(2)




確かに、現象学の中には違いはあるが、共通の特徴もいくつかある
以下に列記したい

1)現象学者は、ある種の純朴さに特徴付けられる自然な態度が存在すると考える
なぜなら、この態度を採ることによって、我々を取り巻く現実の中で我々が存在する意味があると信じるからだ
しかし、我々は意識と志向性を具えている
従って、「もの・こと」は対象化し、我々の意識によって構成されたものとして存在する
それは受動的に我々に与えられるのではなく、我々が意識を働かせることにより現実に意味を与えるのである
これがフランツ・ブレンターノの提唱した志向性という概念である

2)このように、哲学はある種の現象学的転換を行わなければならない
方向性を完全に変えることにより、現象学に移行する
「もの・こと」に向かう代わりに、我々にとって、主体にとってのその意味を分析するのである
そして、実証科学に現れる客観的な意味の領域から離れ、 主観的に生きる中で直に経験する意味に向かうのである
それは「現象学的エポケー(判断停止)」、すなわち「現象学的還元」(注参照)に戻ることである
そして現象学者は、その正確な性質と様相を議論するのである

3)フッサールにとっての志向性は、本来世界に在るものではなく意図的に構成された現象や意識の行為の特徴である
このように志向性は、意識が「もの・こと」と結ぶ関係、志向性がデータとして「もの・こと」を示す関係を指している
ハイデッガーや一般的な実存主義者にとっては、志向性を示すのは人間そのものの実在である

4)フッサールに感化された現象学者にとっての主要な哲学的問いは、意味の問題である
一方、ハイデッガーに霊感を受けた者にとっては、存在者の実存の問題になる
いずれの場合も、その主要な役割は主観性に帰せられなければならない
フッサールの場合は世界を構成する存在者として、ハイデッガーの場合は存在者の実存を問う存在者として


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「現象学的還元」について

狭義には「超越論的還元」を指し、広義には「形相的還元」をも含めたものをいう

我々は自然的態度では世界の超越的存在の定立を日常暗黙のうちに認めている
フッサールはこれでは厳密な学問的認識が不可能であるとして、自然的態度を徹底的に反省する
反省の眼差しを自分自身の意識作用そのものへ向けるのである 
自然命題を「かっこに入れる」(エポケ―=判断停止)この操作を「超越論的還元」と言った
それにより、実証主義的方法では行き詰まっていた人間諸科学のうちに「意味」のカテゴリーを回復しようとした

世界の存在意味は主観性の内に求められなければならない
そのため、純粋意識の事実から純粋意識の本質への還元を「形相的還元」として「超越論的還元」と区別した


(つづく)











2020年3月26日木曜日

現象学とは(1)+ COVID-19



まず、COVID-19 に関する情報から
先日も触れたように、フランスでは交通機関が大きな影響を受けている
新らたな空港への影響は、以下の通り

(1)現時点ではCDG空港はT2G及びT3、オルリー空港はT1及びT2が閉鎖中
(2)3月26日23時30分からオルリー空港のT4が閉鎖
(3)3月31日23時59分からオルリー空港T3も閉鎖で、空港全体が閉鎖に

ひょっとすると、CDGの閉鎖も時間の問題かもしれない
日本の対応は鈍かったので、将来フランスに近い状態にならないことを願いたい


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今日から何回かに分けて、現象学に寄り道をしてみたい
現象学に関しては、まだ日本にいる時に拙ブログを読んだフランスの哲学教師からご宣託が届いたので忘れられない
それは、「あなたは現象学、就中ハイデッガーフッサールを愛するために生まれてきたのです」というものであった
それではこの学問を覗いてみたい

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「現象学」という言葉はヘーゲルなどによっても使われていたが、フッサールの哲学の後に現れたものである
これは多くの哲学者により実践された
マックス・シェーラーニコライ・ハルトマンローマン・インガルデンハイデッガーメルロー・ポンティなど
さらに最近のフランスでは、レヴィナスミシェル・アンリジャン・リュック・マリオンなど
現象学は現代フランス哲学の主要な局面の一つである

現象学はその主張を容易に説明できる学説ではない
現象学は哲学の実践のやり方に関するもので、分析と解決に至る問題提起と方法の全体に関するものである
それは分析哲学の場合と同様である

現象学者は哲学とは何かについて、そしてその最良のやり方についてのある考えを持っている
これも分析哲学者の場合と同じである
従って、「これが分析哲学である」と言うことができないように、「これが現象学である」 とも言えない
ただ、現象学をフッサールが言ったことに還元し、他人がその違いを強調する誤りを犯したと考えることはあるが、

ポール・リクールは「大きな意味での現象学はフッサールの全作品と彼に由来する異端の考えのすべてである」と言った
フッサールの超越的観念論とローマン・インガルデンのような弟子の実在論との間には決定的な違いがある
現存在」というハイデッガーの概念とメルロー・ポンティの身体特有の現象学との間の違いを考えてもよい
この二つの中に入ると、全く違う空気を吸うことになるのである









2017年5月12日金曜日

現象学事始め、あるいは二種類の反省



今日は夕方、急に雨が降り出し、雷が鳴り続いていた
昨日から空の様子がおかしいようである


フランスに渡る前、フランスの哲学教師をやっていた方から仏版ブログにコメントが届いた
そこには、ブログに溢れる活力は現象学的なものの反映であるとの診断が書かれてあった
さらに、私はフッサールやハイデッガーを愛するために生まれてきたとのお告げが添えられていた
このことは以前に触れたようにも思う
しかし、その意味は分からないままである

最近、移動の時にフッサールの『デカルト的省察』を読み始めている
やはり、日本語がピンと来ず、難しい
このような領域は、自分が同じような経験をしていなければ分からないことが多い
それ故、若い時から哲学をやる難しさを想像している
ただ、今日読んだところは言いたいところが分かったような気がした
一次意識と二次意識、あるいは意識の三層構造とも関係しそうに見えたからではないかと思う

それは反省というものにも二種類あるというところであった
一つは日常の出来事について反省するという意味での反省で、われわれが時々行うものである
「直進的」という言葉で表現されている

もう一つはそれとは別で、そこで起こったことや反省していることについて反省するものである
そういうものが存在するのかどうかということについての反省も含む
この場合、根源的な問いかけになるため、フッサールがエポケーと呼んだ過程が必要になる
「判断停止」と訳されていた

我流の解釈では、一度立ち止まって、存在するもの、経験したことを考え直すということだろうか
存在しているものは確かに存在しているのだが、それを現実ではなく現実の現象と捉えるのである
そこに一つのクッションができ、現実を少し離れたところから見る客観性が生まれるように見える
「もの・こと」により深く迫ることができそうである

日常における反省とエポケーを伴う現象学的な反省では記述のされ方も異なってくるだろう
そして、後者により最初の体験の意味が異なってくる可能性さえある
つまり、「関心を持つ」自我の上に現象学的自我が存在するという「自我の分裂構造」を採っている
前者が世界に関わりを持つ自我であるのに対して、後者は「無関心な傍観者」としての自我である

このテーゼがよく理解できるのは、その構造が自分の中にもあることが見えるからである
最初の仏版ブログにその傾向が現れていたということなのだろうか?
そのことには気付かなかったが、あったのかもしれない
自分が書くものの特徴については、なかなか分からないものである
これからも折に触れて、フッサールさんの考えを「反省」してみたい