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2021年7月14日水曜日

徳認識論、あるいは「科学の形而上学化」の役割









 

 

 

 

 

 

 

「医学のあゆみ」のエッセイシリーズ『パリから見えるこの世界』第101回のご紹介です

 徳認識論、あるいは「科学の形而上学化」の役割

 医学のあゆみ(2021.7.10)278(2): 180-183, 2021

 

これまで折に触れて書いてきた「科学の形而上学化」という方法を認識論の枠組みの中で考えたものです

どのような認識生活を送るのがよいのかを哲学する「徳認識論」という領域を知り、新たな局面が見えてきました

お目通しいただければ幸いです

よろしくお願いいたします

 

 




2020年3月23日月曜日

徳認識論と信念倫理(5)



最近の新たな方向付けについて懐疑的になるかもしれないが、エピステモロジーはこの領域の我々の期待を再定義する
ここまでのエピステモロジーは、知識、理性、正当化、認識論的規範の理論を提示することを狙っていた
ドイツ語で言えば、「知の理論」はカントの精神を持つ Wissenschaftslehre となるだろう
それは、常に多くの哲学者にとっての知の哲学である

しかし、新しい概念においてはアリストテレスの影響がある
ただ、アリストテレスのテクストを厳密に参照するというよりは、いくつかの考えを参考にすることである
それは、徳の重要性、それから理性、知識の実践における自己の完成や人間性の充実した発育の重要性である

つまり、エピステモロジーは認識論的価値を持つ知的態度を記述することである
なぜなら、エピステモロジーは我々の知的成熟や完全な理性の実現を促進する可能性があるからである
もし人間を理性的動物であると定義すると、理性的能力の完全な成熟は人間性の実現を意味している

なぜ我々は知るようにしなければならないのか、なぜ真理を欲しなければならないのかという問いが主要になる
換言すれば、重要なことは価値としての知識と理解である
重要な概念となるのは、認知に関する範疇としての、そして理解の仕方としての感情である
これは「知の理論」の枠組みの中では想像できなかったことだろう

ある意味で、これは知識の哲学に切り込んでいた多くのポストモダンの哲学者が興味を持った問題である
しかし、ポストモダン哲学者には次のような傾向があった
それは、知る意欲や真理の欲求を我々の形而上学的錯覚の徴、そして支配や権力欲の表れと捉える傾向である

徳認識論においては、全く逆である
認識論的徳とは、我々の性質の完全な成熟、認知的と同時に道徳的な我々の完成に不可欠な条件である
この意味で、エピステモロジーと人間性の形而上学は相互浸透するのである
それはまた、形而上学の現代におけるルネサンスが取っている形態の一つでもある









2020年3月22日日曜日

徳認識論と信念倫理(4)




徳認識論は、徳倫理学における道徳的生活をモデルにして認識論的生活を考える
重要なことは、それを尊重することにより信念の正当化が保証される認識論的規範ではない
徳倫理を生きる人にとって良い道徳的生活とは、我々の中にある最良のもの、我々の道徳的徳の実践である
この実践が我々の人間性を実現し、可能な最良の生活を保証するのである

同様に、良い認識論的生活とは、認識論的徳の実践を通して理性的人間性を実現することだろう
認識論的徳とは、例えば、精神を開くこと、知性的勇気、知的活動に相応しい節度のようなものである
シェフィールド大学のクリストファー・フックウェイは、次のように言っている
「徳認識論は、認識論的評価の実践を記述し、知識や正当化に中心的役割を与えることなく、その基本的な語彙を明確にできる」
なぜなら、第一の役割は人間が行う徳に帰属しているからである

このように、現在の認識論は20世紀のある時期そうであったものとは異なるものになっている
我々を知識と正当化に焦点を合わせた認識論に導いたと思われる行き詰まりは、克服できるだろう
特に、認識論はデカルト以来そうであったような懐疑主義の挑戦に対する回答だけではなくなっている

認識論は最早、認識論的正当化の理論ではない
そうではなく、良き認識論的生活を送っているという主張を保証する特徴の質の探究である
重要になるのは知識の定義ではない
寧ろ、それによって人間性を実現する認識論的生活の望ましい在り方を記述することである








2020年3月19日木曜日

徳認識論と信念倫理(3)



知的生活にとって、徳認識論は1960年代に誕生して以来、徳倫理学と並行するものである
それは、エリザベス・アンスコムピーター・ギーチアラスデア・マッキンタイアらの仕事の中で生まれた
徳倫理は規則による倫理とは対立する

後者においては、一つの行動が道徳的かどうかは規則や命令に依存しているかどうかで決まる
カントにとって、この命令は定言的である
すなわち、如何なる経験上の条件にも煩わされることがない

例えば、嘘を決してついてはいけない、なぜならそれは普遍化できない行為だからである、となる
優れた道徳的規範は、行動を縛る原則が普遍的法則に高められるように行動することである
規則による倫理は、すべての人間の行動の道徳的規範を成す規則は何なのかを決めることに関わっている

それに対する徳倫理は、行動ではなく動作主あるいは行動する人間を対象とする
行動の道徳性を生むのは、その人間の道徳性である
そして、人間の道徳性は、正義、勇気、節制などの性格の特性に由来する

正しい道徳的問いは「私はどのような行いをすべきか」ではなく、「私はどのような類の人間であるべきか」である
優先される概念は、務め、義務、命令の概念ではなく、徳、卓越、善、信頼のそれである
嘘が禁じられるのは、それが普遍化できないからではなく、嘘をつく人の堕落した特徴を物語るからなのである


(つづく)







2020年3月18日水曜日

徳認識論と信念倫理(2)



正当化された我々の信念、あるいは信念をもって何かを信じている我々
この二つは同じではない
徳認識論は、信念ではなくそれを信じている人に重点を置くという変化から生まれた

この考え方は、正当化された信念の特徴より、知っている人の特徴に興味が向かう
思考の正当性や信憑性を成すものを問うことと、何かを信じている人の信頼性を検討することは別である
我々の信念が保証されるためには、我々はどのような類の人間でなければならないのか
認識論における最も根本的なこととしてこの疑問を持つことが、現代哲学者の認識論の理解の仕方を変えることになる

エピステモロジーは信念(心情)倫理として捉えることができるだろう
つまり、あることを信じる資格があるのかどうかの問いに対する答えである
例えば、この本の読者がそこで読んだことを信じる資格はあるのか
21世紀に生きていることを信じる資格を持っているのか

しかし、我々の資格に関する議論は形だけのものに過ぎないかもしれない
上で見られた議論のやり方を交換しましょう
しかし、それはフー・ファイターズの最新アルバムが素晴らしいことを信じることに関するものなのか
神の存在を信じることに関するものなのか

今回は議論がより激しくなる恐れがある
ある人は、「しかしそれは『下品なロック』で何の美的価値もないし、素晴らしくもない」と言うだろう
「神?でも君はその存在を信じていない。そんなのは馬鹿げているだけではなく、無責任だ。なぜなら、宗教的狂信がどれだけの不幸の直接原因ではないのかと言えるからだ」

徳認識論から見れば、重要なことは、例えば、神の存在を信じることが受け入れ可能かどうかを知ることではない
そうではなく、神の存在を信じている人が承認しがたい認識論的態度を採っているかどうかを知ることなのである
信念倫理は、最早信念の特徴には向かわない
むしろ、態度、やり方、習慣、悪癖と徳について強調しながら倫理に近づくのである


(つづく)










2020年3月16日月曜日

徳認識論と信念倫理(1)



懐疑主義者から見れば、我々の信念は要求性の高い認識論的正当化の基準を満たすことはできない
彼らは、我々が認識論的正当化において概してだらしないと考えている
認識論における不満はそこに由来する

そのスローガンは、次のようなものである
「私が知っているすべては、私は何も知らないことである」
「クセジュ?(私は何を知っているのか)」

デカルト、ロック、カントのような基礎付け主義者は、認識論的正当化の基準を出すことができたと主張する
デカルトは思考の明晰さと洗練、ロックは証拠と信念の度合いとの釣り合い、カントは実証的立証性を提示した
基礎付け主義者は、懐疑主義者に答えようとするのである

ところで、それは可能だろうか
現代哲学者の認識論的プロジェは、我々の信念の認識論的価値を検討することと一体化する
これはラッセルまでとそれ以降のことだが、1980年代から新しい哲学者が現れる
彼らは正当な信念の規範や知識の基盤の問題に関する研究と縁を切るのである


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基礎付け主義(fondationnalisme; foundationalism)とは、信念や判断の構造に関する立場であり、哲学のさまざまな分野に存在する。

•    認識論においては、信念が正当化されるのは基本的な信念によって基礎付けられることによってであるという考え方を指す。
•    倫理学においては、倫理的判断が正当化されるのは基礎的な倫理判断によって基礎付けられている場合であるという考え方を指す。

反基礎付け主義とは、知識を基礎付ける 確実な基盤の存在を認める基礎付け主義を批判し、反対する主張。
リチャード・ローティに代表される。
フランス現代思想のポスト構造主義、ポストモダンも反基礎付け主義的傾向をもつ。
真理・理性といったロゴス中心主義を批判し、総じて相対主義的な傾向を持つ。

(Wiki より)


(つづく)