2020年3月18日水曜日

徳認識論と信念倫理(2)



正当化された我々の信念、あるいは信念をもって何かを信じている我々
この二つは同じではない
徳認識論は、信念ではなくそれを信じている人に重点を置くという変化から生まれた

この考え方は、正当化された信念の特徴より、知っている人の特徴に興味が向かう
思考の正当性や信憑性を成すものを問うことと、何かを信じている人の信頼性を検討することは別である
我々の信念が保証されるためには、我々はどのような類の人間でなければならないのか
認識論における最も根本的なこととしてこの疑問を持つことが、現代哲学者の認識論の理解の仕方を変えることになる

エピステモロジーは信念(心情)倫理として捉えることができるだろう
つまり、あることを信じる資格があるのかどうかの問いに対する答えである
例えば、この本の読者がそこで読んだことを信じる資格はあるのか
21世紀に生きていることを信じる資格を持っているのか

しかし、我々の資格に関する議論は形だけのものに過ぎないかもしれない
上で見られた議論のやり方を交換しましょう
しかし、それはフー・ファイターズの最新アルバムが素晴らしいことを信じることに関するものなのか
神の存在を信じることに関するものなのか

今回は議論がより激しくなる恐れがある
ある人は、「しかしそれは『下品なロック』で何の美的価値もないし、素晴らしくもない」と言うだろう
「神?でも君はその存在を信じていない。そんなのは馬鹿げているだけではなく、無責任だ。なぜなら、宗教的狂信がどれだけの不幸の直接原因ではないのかと言えるからだ」

徳認識論から見れば、重要なことは、例えば、神の存在を信じることが受け入れ可能かどうかを知ることではない
そうではなく、神の存在を信じている人が承認しがたい認識論的態度を採っているかどうかを知ることなのである
信念倫理は、最早信念の特徴には向かわない
むしろ、態度、やり方、習慣、悪癖と徳について強調しながら倫理に近づくのである


(つづく)










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