2020年3月1日日曜日

エピステモロジー(11)



認識論的正当化(5)

問(2):認識論的正当化に対する回答は知識の定義を経るのか
この問に対するポジティブな反応の一つの前提は、ピーター・ギーチが「ソクラテス的詭弁」と呼んだものである
プラトンの対話篇で、ソクラテスはある「もの・こと」を定義できなければ、それを知ったことにはならないと主張

つまり、何が美しいものなのかを知るためには、美とは何であるのかを知らなければならない
同様に、正しいことを知るためには正義を、信心深い行動を知るためには信仰心を定義しなければならない
多くの哲学者は、それが彼らに立派な役割を与えるという理由で、簡単に信じてしまった
知っていると主張する人に何も知らないことを示し、定義の専門家を自称するのである

しかし、子供はどちらも定義できないのに、父親とぬいぐるみの熊を明らかに識別している
その子供に、指さすだけでは不十分で、ぬいぐるみの熊とは何であるかを言わなければならないと訊いてみる
そうすることは、子供を苦労せずにソクラテスにすることでもあるだろう

犬でさえ、定義することなしに食べ物と入れ物を区別する
犬は入れ物でなく食べ物を食べる
定義には全く依存しない知識のケースである

医師は目の前の患者がその病気であるか知らなくても、病気であるための必要十分条件(定義)を知っている
X の定義は X の一例を同定する能力とは一致しない
しかし、それは知識としては有用である

ゲティア問題は知識の古典的な定義が不十分であることを示すものであった
間違った考えを排除することは、決して時間の無駄ではない
エピステモロジーの進歩、一般的には哲学の進歩というものは、おそらくそういうものだろう

ゲティア問題に関連する論争が巻き起こした知的興奮は、次のようなことに関するものであったと言えるだろう
それは、ある特定の場合に S が p を信じることが正当化されるか否かを知るという問題を省察することであった
ゲティア問題が議論の余地のない解決を見ることはなかった
しかし少なくとも、p を知ることと p の正当化された真の信念とは同じものではないことを知ることになった
それは、数百の論文の著者の努力のお陰である












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