認識論的正当化(4)
大陸哲学者の中には、実存的、政治・文化・歴史的問題を無視して哲学するやり方に軽蔑しか示さなかった者がいる
フレッド・ドレツキにとって、知覚、証言、証拠、記憶、情報などは我々の知が形成されるされ方である
しかし、知覚、証言、証拠、記憶は「演繹の下に閉包」されていない
(1)もし S が p と、p が q を導くことを知覚しているとすれば、S は q を知覚することになる
(2)もし S が証言により p と、p が q を導くことを知ったとすれば、S は証言により q を知ったことになる
(3)もし S が p と、p が q を導くことを証明したとすれば、S は証言により q を証明したことになる
(4)もし S が p と、p が q を導くことを覚えていれば、S は q を覚えていることになる
しかし、ドレツキによれば、(1)ー(4)は間違っている
ただ、知り方の失敗は認識的閉包性の原則が間違っていることを意味しないと答える人がいる
それは単に、我々が知っているものの先にあるものを我々は知ることにはならないことを示しているだけである
すべて問題は、次のフォルミュールが正しいかどうかである
(5)もし S が知覚、証言、証拠、記憶により p と、p が q に導くことを知れば、S は q を知っていることになる
しかし、「演繹的閉包性の原則」が間違ってなくても(5)は間違っているかもしれない
ゲティアの論文からこのような些末で形式的な議論を展開する営みを考える時、基本的な前提に気付く
それは、エピステモロジーは最終的には知識を必要十分条件において定義しようとするものだということである
ここで、二つの問いを出すことができるだろう
(1)知識の定義に至ることは可能なのか
(2)認識論的正当化に対する回答は、知識の定義を出してからなのか
問(1) は、知識のような概念を定義するとはどういうことなのかについて自問するところに導く
哲学者の中には、一般的な概念(知識、芸術、宗教など)は必要十分条件では定義できないと考える人がいる
そのような定義は、本質主義的な定義と言われる
寧ろ、同じファミリーの人間が持つとされる型の類似性を持つものとして理解する方がよいと考えるのである
ウィトゲンシュタインによれば、ゲームの必要十分条件は存在しない
しかし、そうだと我々に知らせるファミリーの類似性がゲームの間にはある
本質主義的定義を拒否することがすべての定義の試みを禁じることになるとは必ずしも言えないだろう
さらに、問(1)に対するポジティブな回答が問(2)に対するポジティブな回答を意味しないこともある
知識の適切な定義をすることはできるかもしれないが、それが認識論的正当化の問題解決にはならないだろう
(つづく)
0 件のコメント:
コメントを投稿