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2018年11月1日木曜日

海から始まった一日



月並みだが、早いもので今年も残り二か月になった
これからの時間で何ができるだろうか
見守りながら歩みたいものである

今朝、海へ足が向いた
人影もなく、静かな景色であった
広がる海を前に体を動かすのも悪くない
海辺を散策している時、今日の設計図が浮かんできた
いつも前に図があるとうまく行かないのだが、今日はどうだろうか

午前中に先週のサイファイ・カフェSHE札幌の纏めをすることができた
ハイデッガーの技術についての考えを中心にしたものである
こちらをご覧いただき、お気づきの点などお知らせいただければ幸いである

ところで、カフェで纏めをやっている時、お隣の女性3人組の会話が耳に入ってきた
こんな具合である
「この前なんか、うちの旦那、連絡もしないで呑みに行ったきり帰ってこない。電話してどこにいるのか訊いても答えないのでもう勝手にしなさいと言って携帯を切ると、5分もしないうちにこっそり帰ってきた。しかし、一言の謝りもないので頭(あったま)にきてそれから3日間一言も口をきいてやらなかった」
と言って笑い飛ばしていた
それを聞いて、思わず心の中で「にんまり」
それが外に出ないようにと苦労した
現世に降りると、なかなか大変である

午後からは淡々とコサールさんの翻訳の見直しをやる
充分に摘み取った一日と言えるだろう






2018年10月27日土曜日

第6回サイファイ・カフェSHE札幌、技術から現代を考える



午前中は雨と風でどうなるかと思ったが、午後から晴れてくれた
第6回になるSHE札幌を開催した
1名の方が都合が悪くなり欠席となったが、写真の4名の方が参加された
実はカメラを忘れたため、参加された長谷川氏のスマートフォンをお借りした
こういうことは稀ではなくなった

今回のテーマはハイデッガーの技術論を基に、テクネーの本質について考えた
何度も触れているが、日本語では見慣れない術語が出てきて苦労する
既にある言葉を使うのではなく、新しく造る傾向があるためだ
人を哲学から遠ざけることに貢献?している

ハイデッガーに関しては、個人的な縁がある
フランスに渡る前の2年間、フランス語を勉強するためにブログをやっていた
それを読んだフランスの哲学教師が長いコメントを書いてくれた
一つのポイントは、わたしはハイデッガーを愛するために生まれてきたというのだ

その意味がよく分からなかったが、今回彼が書いたものを読み、少しだけ見えてきた
と、思った
似たようなことを考えているように感じたからだ
以下、独断をもって書いてみたい

一つは、わたしが言っている「科学の形而上学化」についてである
科学の成果の本質は、科学では掴みえないので形而上学を導入しようという立場である
ハイデッガーは、技術の本質は技術的ではないと言っている
技術を中立的なものとして見ると、その本質には辿り着かない
本質が見えてこないと、技術との自由な関係も結べない
技術にどのように対処してよいのか分からないのだ

それから、彼が見ていた科学時代における思考の欠如である
勿論、人間は考えている
しかし、それは計算に基づく思考であり、科学的思考である
欠けているのは、存在そのものの意味に入る瞑想的な思考であるというのだ
これまでこの場で言ってきた瞑想の重要性に繋がる

この見方は意識の三層構造理論に当て嵌めるとさらに明確な像が浮かび上がる
つまり、現代人の思考は第二層止まりで、枠を超えた思考が行われる第三層には入らない
瞑想的思考が排除されているのである
この思考こそが世界を救うかもしれないのに、である
問題は、この思考は具体的な問題解決に貢献しないこと
そして、この思考に習熟するためには時間と訓練を要することである
そのため、残念ながら、その必要性が真に理解されることになっていない


ハイデッガーの技術に関する考えは、近いうちに専用サイトに纏める予定である
技術に関してここで言えることは、次のことだろうか
それは、技術の本質から齎されるものが我々の生活を覆いつくしていることである
目立たない形で、産業、経済、教育、政治、戦争、マスメディアなどに組込まれている
現代では、我々はすでに技術の本質の中に生きている
そこには主体性がないので、生かされていると言った方が正確だろう
しかし、その中にいる人にはそれが見えていないのだ

なぜ文系の役人が文系の学問を軽視するような方針を出すのか疑問であった
しかし、こういう背景を考えると腑に落ちる
おそらく、彼らの思考も技術の本質から齎されるものに侵されていたのである
そのため根源的な思考、瞑想的な思考ができなくなっているのである







2018年10月26日金曜日

終日ハイデッガーを読む



今日は朝からハイデッガーの日本語訳を読んでいた
言葉を読んですぐにイメージできない日本語が出てきて、それが重要になる
そのために言葉を造るのである
そして、それが日本では術語になるのだろう

そういう時はフランス語訳を読んだ方が分かりやすい
すでにある言葉を使っていることが多いからだろうか
日本語で哲学するのも大変である

カフェ前日ということもあり、これまでになく集中できたのではないだろうか
この集中を日常的に維持できれば素晴らしいのだろうが、そうはいかない
明日も準備は続ける予定である













2018年10月16日火曜日

あなたのこころを開きなさい



昨日まで昔やっていたような研究論文に当たっていた
意識を狭い世界に集中して自分の考えをまとめるという作業である
そこから離れることがここ10年ほどの目的であったので、終わった今朝は開放感があった

早朝は曇っていたが、快晴になった
朝から庭に出て静かに過ごすことにした
庭の雑草に寄ってくる蝶々、トンボ、バッタ、蜂、カラスなどとともに

その時、日本でフランス語を学ぶために少しだけ通っていた学校で聞いた言葉が蘇ってきた
こころの深くに入ってきたその言葉は、フランス人の先生の発したouvrir votre espritである
問いに向き合う時に「こころを開いて考えなさい」という流れの中ではなかったかと思う

そして最近、ハイデッガーを読んでいる時、似たような話が出てきた
こころを開くとはどういうことを言うのか
それは、すべてのものに同じ価値を与えることだという

目の前に広がること、頭の中に浮かぶこと、それらを選択せずに一度受け入れてみること
その上で考えを巡らすこと、それがこころを開いて考えるということなのだろうか
フランスに渡って以来、わたしがやってきたことはこれだったのかもしれない

それはこころを落ち着かせる効果がある




2018年10月14日日曜日

第6回サイファイ・カフェSHE札幌、迫る



第6回サイファイ・カフェSHE札幌が、来週土曜に迫りました
興味をお持ちの方の参加をお待ちしております

サイト

テーマ: ハイデッガーとともに「技術」を考える
今回は、現代では科学と不可分なものとして「科学技術」などと言われることが多い「技術」について考えます。20世紀の哲学者マルティン・ハイデッガーの思索を基に、科学、そして科学の「方法」が現代社会に及ぼしている目に見えない影響、技術、そして技術により「挑発」される自然と人間、さらに科学と技術の真の関係について考える予定です。ハイデッガーの考えは『技術への問い』(関口浩訳、平凡社、2013)などで知ることができます。
 
日時: 2018年10月27日(土) 16:00~18:00

会場: 札幌カフェ 5Fスペース 
札幌市北区北8条西5丁目2-3






2018年3月31日土曜日

元気の素



人間の活力を決めているもの
元気の素とでも言えるものは、人によって様々だろう
男であれば女性であったり、友人だったり、家族だったりするのだろうか

私の場合、そのような外的な要因に左右されないものを求めようとしてきた
それを最初に感じたのは、ニューヨークにいた30代前半のことである
その時、「内なるモーター」を作り上げるというアイディアが浮かんできた
それ以来、特に意識したことはないが、そのように生きてきたようである
外的な影響を受けない内なるモーターによって生かされてきたと自分では思っている

独立した、自立したと言われるような状態だが、本当にそうだろうか
そこで行われていることは、自律した自己との対話ではある
しかしそれは、過去人によって栄養を与えられた自己との対話である
生身の人間にではないが、やはり依存しているのである

ハイデッガーではないが、我々はこの世界に投げ出されている
しかし、それはあくまでも他者との関係の中でのことである
実際には、生身の人間の有形無形の影響もそこに働いているはずである
それを意識できるかどうかの違いだけだろう
死に向かう世界内存在とは、そういうものなのだろう
であれば、この世にある内にできるだけ多くの影響を受けたいものである

少しだけ認識が広がったように感じる土曜の午後である




2018年3月30日金曜日

クリッチリー教授の考察を読んで



この一週間の考察を自分に引き付けて考えてみる
どこが似ていて、どこが異なっているのか

人間は死に向かう存在である
この事実はほとんどすべての人が知っているだろう
しかし、それを真に理解しているのかと問われると、かなり怪しいものがある
そう言えるのは、自分がその違いをはっきり認識できた時があるからである

これまで何度か触れているが、それは退職の数年前のことである
死で終わる自分の有限性が見えた時、生き方に対する真剣な問いかけが起こった
つまり、すべてが終わる前にやることがあるとすれば、それは何なのかという問いである
生れて初めてのことであった
これは、ハイデッガーの言う真正な(オーセンティック)自分になることと関係してくる

その問いかけが起こる時は、凡庸さの中にある日常との決別がある
そこには強い決心が伴っている
そしてその時、自由に考えることができるようになるという

このような経験を持つことが、哲学に入る道を開くのではないだろうか
それは如何に生きるべきかという問いを前にしたものである
そして、それは取りも直さず、真の自分になることへの道でもある
哲学者には前と後があると言われるが、それはこのことを指しているのだろう

それから人間は死を前にすると、感受性が増すと言われている
私の場合、視覚を介するものの感度が著しく増したように思う
それは景色や映像のこともあるが、特に言葉に対する感受性であった
それまで右から左に流れていたものが、しっかりと捉えられるようになったのである
これはある意味で聴覚、さらに言えば思考に対する感度の上昇でもあった

人間は時間であり、それは有限であるという
過去の遺産を背負い、未来に向けて歩み出す時に、過去が解き放たれる
過去・現在・未来が一体になった、創造的にさえなり得る統合された時間がそこに生まれる
有限の時間をこのように創造的なものにするのが人間の生ということになるのだろうか

このような認識は、こちらに来る前から私の中にあったものである
過去の自分を現在に引き戻す(2007.1.30)
これを基にした生き方に違和感はなく、この10年ほどそれを実践してきたようにも見える
当時ご宣託を送ってくれたフランスの哲学教師には、その兆しが見えていたのだろうか

その一方、ハイデッガーの中には人種差別的思想があった
特に、根無し草のユダヤ人には人間としての価値を見ていなかった
普遍主義やアングロ・サクソン文化への嫌悪のようなものがその底にあったとされている

この点は私のこれまでの考え方や生き方と大きく異なるところだろう
普遍主義ついても批判的に見るべきだが、それを全面否定する立場ではない
二つの極端があった時、両者の中にある優れた点を見ようとする立場である
振り子が一方に振り切れる時、いろいろな場面で破滅が見られたからである

いずれにせよ、判断する前には現物に当たってみなければならないだろう
いつものように、それがいつになるのか分からない





ハイデッガーの『存在と時間』7



今朝は久しぶりの快晴で気持ちがよかったが、午後から雨
そして、夕方には雨は上がり、比較的明るい夜となった
いつももの凄い音を発するお隣さんだが、トロンボーンの音源も同じところであることが判明
今朝は西城秀樹のYoung Man(YMCA)が流れてきて、一瞬オヤッと思う
すぐに、元々はアメリカの歌だったことを思い出す


さて、ハイデッガーに関するクリッチリー教授の考察も最後になった
最後は時間性が問題になるようだ

ハイデッガーが時間の議論で避けようとしたことについて、最初に述べたい
第一は、均一で線状で「今の点」が無限に続くようなものとしての時間を批判している
過去は最早今ではなく、未来はまだ今ではない、現在は未来から過去に流れているもの
アリストテレスに由来するこのようなモデルは、低俗でありふれた時間の概念である

第二は、時間と永遠の違いから始める時間の概念化を避けようとしている
その理解はアウグスティヌスが言ったように、高いところの永遠から時間性が生まれるとする
その永遠は神に通じるものである
ハイデッガーの時間性は、終わりに向けて常に走っているDaseinの実存に繋がるものである
時間の最初の現象は、死に向かう存在である私に現れる未来である
未来とそこに向かうということが結びつくのである
人間は現在に閉じ込められているのではなく、常に未来に投げ出されている

Daseinが未来に引き継ぐのは、存在論的な罪である
未来から現れるのは、わたしの個人的、文化的過去である
ハイデッガーが言うところのGewesenheit(having-been-ness)である
しかし、それは自分の過去に運命付けられていることではない
寧ろ、自由の中にいるという事実を引き継ぐ決意ができるのである
それを、固い決意をした状態、決然とした状態と言ったのである

ハイデッガーの現在は、今の点がどこまでも続くものではない
私がしっかりと掴むことができ、自分自身のものとすることができる何かである
未来を期待する中で開かれるものは、Gewesenheitを現在の活動の中に解き放つことである
それが彼の言うAugenblick(the moment of vision)である

この言葉はキェルケゴールやルターからの借用で、ギリシャ語のkairosの訳になる
kairosとは「適切な瞬間」を意味し、キリスト教ではキリストの出現と共に来る時間である
ハイデッガーの場合には、神との関わりなしに考えようとしている
その瞬間に現れるのが、真のDaseinである
彼の時間は、未来、過去、現在が統合されたものとして捉えられる
それは法悦であり、原初的なもので、死で終わる有限なものである

我々は時間である
時間性とは、統一体を作る三つの次元と共にある過程である
この書で彼がやろうとしたことは、有限な人間の動きを記載することであった
『存在と時間』は未完の書である
人間存在(Dasein)については解析できたように見える
しかし、より広く「存在そのもの」については手が付いていない 、ということなのだろうか

(了)






2018年3月29日木曜日

ハイデッガーの『存在と時間』6



本日も午前中は雨で、夕方にかけて明るい光が見えるようになった
夏時間の影響も出始めていて、よい感じなってきた
それでは、クリッチリー教授の考察に戻りたい

これまでの「死に向かう存在」という概念には、良心の問題が出てくるという
この概念自体は形式上は問題ない
しかし、onticなレベル(現実の具体的な経験のレベル)ではさらに何かが求められる
有限性が自己を捕らえるのは、良心を通してだからである

良心とは呼ぶ声である
馴染み深い日常に浸り切っている偽物の生活から離れよ、と呼ぶ何かである
この世界の喧噪や無駄なお喋りから抜け出て、忙しさを止める声のような何か
その外からの声を頭の中で聞くという神秘的経験である
これはアウグスティヌスやルターのようなキリスト教信者の経験に近い

しかしハイデッガーの場合、それは神が自分に語ることではなく、私が自分に語ることである
日常の偽物の生活から呼び戻される神秘的な経験である
良心とは、人間が自分自身を死すべき者として呼び戻す経験である

良心の声で何が語られるのかと言えば、何の指示も助言もない
無言である
それを理解するには、偽物の生活はお喋りに満ちていることを掴むことが重要である
良心の無言の呼び声が私を私自身に戻してくれるのである

しかし、それは何を理解させるのだろうか
良心の声は「有罪!」という一つの言葉に還元される
Daseinの罪とは何を意味しているのか
人間存在は投企されたものと規定されるので、あるべき存在を持っている
人間存在は欠乏であり、埋め合わせるために駆り立てられる負債である
それが罪の存在論的意味である

罪は倫理的な自己の深部構造を明らかにするとハイデッガーは言う
それは道徳に先立つものなので、道徳では説明できない
罪とは、如何なる道徳にとってもそれ以前の源で、善悪を超えている
単に我々が在るところのものであるということであり、我々は有罪であるということである
「常に、すでに」そうである

真のDaseinは声の意味を理解し、自身が罪ある者であると理解するようになる
そこで、Daseinはそれ自身を選ぶのだが、それは良心を持つことではない
良心を持ちたいと思うことである(欠乏に向けての傾きか)
私であるという欲求を欲することを選択するのである
そのことによってのみ、人間は責任を負えるとハイデッガーは言う
倫理において鍵となる責任の概念は、声を理解し、良心を持ちたいと思うことから成っている
この選択をするということは、固い決意を持つようになることである

(つづく)




2018年3月28日水曜日

ハイデッガーの『存在と時間』5




『存在と時間』の基本的な考えは、「存在は時間で、時間は有限である」ということだ
人間存在にとって、時間は死に向かい、死とともに終わる
従って、真の人間存在とは、本質的に我々は死の地平に投企されているということである
すなわち、「死に向かう存在」であり、我々の存在は有限だということである
ならば、真の人間生活は有限性と向き合い、そこから意味を汲み取ろうとすることである
彼は、古くからある「哲学とは如何に死ぬのかを学ぶこと」という言葉に同意する
死すべき運命は、我々が我々の自我の在り様を形作ることと関係しているのである

「死に向かう存在」には、次の4つの基準がある

一つはその非関係性である
死を前にした時、他者との関係が切断される
死は自分で経験するしかない
二つ目は、それが確実だということである
我々は死に行く存在であるという事実から逃げても、死は確実にやってくる
三つ目は不確定性で、確実に死ぬがそれがいつかは分からない
そして最後が、それは超えることができない極めて重要な問題だということである
死がやってくると、すべての可能性が消える
ハイデッガーが言った「不可能性の可能性」である

「死に向かう存在」に含まれている最も重要な意味は、可能性への賛歌である
 ここで、Erwarten(待ち受ける)とVorlaufen(先を走る)を区別する
前者は運命を前に受け身であるのに対し、後者はそれを予期して自由な行動の条件とする

ここで逆説が現れる
自由とは死という必然性の欠如ではなく、その必然性を肯定することから生れるのである
真に在るところの存在になるのは、「死に行く存在」の認識の中だけなのである
我々の有限性を受け入れることこそが、我々の生の基礎にある
これが偽物の日常生活に浸りきったところからDaseinを引き上げるものなのである

この主張は、自分の死こそが最も重要で、他者の死は二次的であるということに繋がる
それは間違いで、道徳的にも問題があるという批判がある
さらに、伝統的な人間中心主義が働いているという批判もある
つまり、人間の死だけが重要で、他の生物の死は下に置かれる
他にも死を経験できる生物がいるのではないかという批判である

(つづく)






2018年3月26日月曜日

ハイデッガーの『存在と時間』4



本日は朝から雨模様
今日もクリッチリー教授による『存在と時間』の考察を振り返ってみたい

ハイデッガーにとっての気分は、人間存在を明らかにする本質的な方法となる
中でも基本となる気分(Grundstimmung)は、不安である
Daseinは世界内存在であり、我々の日常は世界の在り方に完全に浸ることである
世界内存在は全体として不安の中で明らかにされ、配慮・関心(Sorge)として定義される

まず捉えるべきは、不安は何かについて絶えず心配することではない
そうではなく、不安は稀で微妙な気分であり、平静・平和の感情と比較される
自由で真の自己が最初に存在に現れるのは、不安の中でのことである

ハイデッガーの不安を理解するためには、恐怖の気分と識別しなければならない
恐怖は何か特定のものに対するものである
対象があり、それが除かれると恐れもなくなる
しかし、不安には特定の対象はない
敢えて言えば、世界内に存在しているそのことに対する不安になるだろう
はっきりと定まらないものを前にした時に経験するのが、不安である

この世界には多くの意味が溢れ、その世界に魅了されていて、居心地がよい(heimlich
しかし、突然世界が意味のないものに見え、不安に駆られる
自分の世界が居心地の悪い(unheimlich)異質なものに感じられるようになる
サルトルの『嘔吐』のようなものだろう
それまで人生のゲームでプレーしていたところから観客席に移動するような感じだろうか

不安の中で最初に垣間見るのが、真の自己である
偽物の生活では、ものや他人に完全に縛られ、日常の凡庸さの中で窒息している
不安とは、まず自己が自らを世界と峻別し、自己に注意が集中するようになることである
不安を感じるのに特別な舞台装置は必要ない
何ということもない状況の中で、突然、自己と世界との根源的な違いを感じるのである

ものや他人からの自由としての我々の自由、その経験が不安である
自分自身になり始める自由である
不安は優れて哲学的な気分である
他のものから自由になり、自分自身のために自由に考え始める経験である
アウグスティヌスからキェルケゴールに至るキリスト教の伝統の中における分析がある
しかしハイデッガーの場合、神との関係では分析しない
死との関係でそれは行われるのである

(つづく)






2018年3月25日日曜日

ハイデッガーの『存在と時間』3



本日から夏時間
朝からの明るい優しい日差しが嬉しい
素晴らしい季節の始まりであることを願いたい

先日目に入った記事の中に、ガダマーさんの追悼記事があった
長命だったことは知っていたが、それ以外は気にかけていなかった
彼が生まれたのは1900年で、2002年に102歳で亡くなっているので年齢が分かりやすい
その記事に「60歳で出した『真理と方法』で有力な哲学者になった」とあり、驚いたのだ
ドイツ語のウィキに行くと、彼の作品はすべてそれ以降のもの
76歳、83歳、89歳、93歳、96歳(2冊)、100歳(3冊)という具合だ
驚くべきスタミナである

その記事によれば、略歴は以下のようになる
29歳でハイデッガーの下へ
昨日の記事にもあったが、彼はナチスには加わっていない
学生時代にポリオに罹ったようで、兵役にも行っていない
34歳でナチスの拠点だったキール大学で教え、37歳でマールブルクの教授となる
その2年後にはライプツィヒに移り、戦後ソビエトが彼を学長にしたという
しかし、47歳でフランクフルトに戻り、49歳でハイデルベルクへ
亡くなるまでそこに留まり、最後まで独身を通したようだ


再び、『存在と時間』に戻りたい

本書の目的は、形而上学の根本問題である存在の問題についての困惑を呼び起こすこと
彼は、この世界における日常の存在としてのDasein(人間)を解析することにより行う
Daseinはこの世界に投げ出(投企)された存在である
その状態をGeworfenheit(thrownness)と彼は言った

ハイデッガーは心の状態、気分、投企された状態という三つの概念について解析する
心の状態(Befindlichkeit)は、英語では次のように訳されている
'already-having-found-oneself-there-ness' 「すでに自分自身をそこに見出している状態」
つまり、人間はこの世界の中のどこかにすでに存在しているものということになる

気分(Stimmung)は感情や情緒を意味するが、心理学的な含みはない
寧ろ、この世界と調和しながら向き合っている我々の根源的な在り方を意味している
我々は世界との関係抜きには存在し得ず、その関係は理性ではなく気分の問題である
我々の日常は、恐怖、退屈、興奮、不安などの諸々の気分の中にいることを意味している

Daseinは投企された受け身の状態ではなく、我々はその状態を理解することができる
理解するとは、どのように何かをするのか、操作するのかという活動の概念である
真の人間は、存在する可能性、能力(Seinkönnen)によって規定される

纏めると、人間は世界に投げ出されているだけではない
その状態を取り払い、具体的な状況における可能性を掴むという運動に入ることができる
これがハイデッガーの言う投企(Entwurf)であり、自由の経験である
自由とは抽象的な概念ではなく、世界内での行動を通して可能性を示す人間の経験である
真の人間とは、そのように行動する人のことである

(つづく)





ハイデッガーの『存在と時間』2



昨夜、ハイデッガー関連のビデオを観た
その中からナチスとの繋がりに関係する発言を少しだけ

バディウさんのコメント
「彼がナチスであることは何の疑いもない。当時の知識人も含めた多くのドイツ人が支持していた。それは事実だ。ただ、恰も探偵小説を読むように、ナチスの証拠を探すように彼の作品を読むことは、どうだろうか。それは哲学の本当の味わい方ではないのではないか」
リチャード・ローティさんも同じ観察をした後で、こう付け加えている
「彼はナチスのやったことを知っていたはずだが、そのようなこと関して何も発言していないのはどうだろうか。・・・どうしようもない人間が素晴らしい作品を書くことがあるが、ハイデッガーはその好例だろう」
ハイデッガーの弟子ハンス・ゲオルク・ガダマーさんは、当時の驚きをこう語っている
「その事実を知った時、わたしだけではなく周りも言葉を失った。どうしてそんなことがあり得るのか。どうして彼がこのような過ちを犯し得たのか、と問わなければならない。そして、彼は気が狂ったのだと我々は考えた」

では、『存在と時間』の続きを始めたい

本書が扱っているのは、存在の問題である
生物や物理的世界というような特定の存在ではなく、存在そのものについての学問だ
抽象的で、普遍的で、最も根源的な哲学の領域
2,500年前にアリストテレスが「第一哲学」と呼び、後に形而上学と呼ばれたものである
我々はその答えを持っていないし、その問いに困惑を感じることもない
ハイデッガーがやろうとしたことは、存在についての困惑を呼び戻すことであった
ライプニッツの「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」という問い関するものでもある

まず、我々自身が解析されるべきものとしてあると告げる
つまり、この問いはわたし自身のものとなるのである
人間存在は何から成るのか?
それは時間によって規定される人間の実存(Existenz)である
個人的、文化的な過去を持ち、現在から未来にある一連の可能性へ歩み出す存在である
この存在はわたしに無関係ではあり得ず、自らに問いかける、開かれた存在である
これが彼の言うEigentlichkeit(オーセンティシティ、本来あるべき性質)の本体である
ここで、自分自身としてあるのか、そうしないのかという重要な選択が出てくる

哲学は、例えば、世界は存在するのかというような現実離れした推論をすることではない
そうではなく、我々の日常にある人間を記述することから始まるのだ
その日常性の中から一般的な構造を引き出そうとするのが哲学である
しかし、我々に最も近く、当たり前のことを記述することは極めて難しい

(つづく)





2018年3月24日土曜日

ハイデッガーの『存在と時間』1



本日は曇り後雨で暗い一日
週末が近づくと、目覚めが微睡に変わるようだ

昨日のハイデッガーについての記事の印象をここで簡単にまとめておきたい
ハイデッガーとナチスとの関連については、広く論じられていると思う
以前のブログでも結構取り上げている
ハイデッガーの二つの顔 (I)(2006-07-09)
ハイデッガーの二つの顔 (II)(2006-07-10)
ハイデッガーの二つの顔 (III)(2006-07-11)

ハイデッガーさんの 「科学は考えない」 を考える (2012-01-11)
ハイデッガーの 『黒のノート』(2014-02-11)
1931年から41年にかけて書かれた『黒ノート』が4年ほど前に出版された
そのことに関する当時の記事が二つあった

特に発見はなかったが、最近取り上げた認識により、その意味がより明確になってきた
その認識とは、啓蒙主義が唱える普遍主義と地に根ざした考えとの対立である
ハイデッガーは1933年にナチスに入党し、大戦終了まで党に留まった
彼はユダヤ人が西欧世界を動かしているのではないかという強い懐疑を抱いていた
その普遍主義により、自分の民族の血が犠牲になるのではないかという恐れである
それを救うのがナチスではないかとの期待を抱いていた可能性がある

普遍主義には自由主義や民主主義や共産主義が内在している
ハイデッガーには共同体や伝統を破壊し、帝国主義的にもなり得るこの思想への嫌悪があった
それはロシアやアングロ・サクソン文化への嫌悪にも繋がった
そこで行われる思考の凡庸さ、味気無さに耐えられなかったようである
私流に言えば、第三層の思考が行われない世界と言えるかもしれない

反ユダヤ思想の持ち主の哲学から学ぶべきものはあるのか、という問いがある
これまで読んできたものの中には、全否定する人もいた
その一方で、反ユダヤ主義的ではない部分からは学ぶべきところがあるとする人もいる


ここで、サイモン・クリッチリー教授の『存在と時間』についての考察を読んでみたい
1927年に発表されたハイデッガーの主著である
アングロ・サクソンの分析哲学者とは違い、大陸のこの哲学者の影響は甚大であった
哲学の外でも、建築、芸術、社会政治理論、精神医学、心理療法、神学などに及んだ
そこで目指しているのは、哲学の伝統の破壊であると宣言している
伝統的権威を受け入れるのではなく、世界の生きた経験の根本にまで掘り下げようとした
そのために、新しい言葉を造った

人間は、Dasein(現存在)と呼ばれる
英語では、being-there、「そこに存在しているもの」となる
孤立しているのではなく、他の存在とともに世界の中にいる存在である
その上で、「存在は時間である」となる
人間は生と死の間の存在、あるいは死に向かう存在という意味である

真の(authentic)人間とは、そのことを常に意識している人間のことである
生の有限性を理解して、その存在であるところのものになろうとする人間のことである
ハイデッガーの場合、生の有限性(死)の問題を神との関係では考えない

(つづく)





2018年3月23日金曜日

ハイデッガーが突然現れる



これから外で仕事を、と思った時メールが入る
宣伝だったが、ホーキング博士の追悼記事が目に入った
ここ10年ほど身近で博士をフォローしてきた方のようだったので読んでみた

博士の場合、病気で体が不自由になっていたが、精神の活動には衰えがなかった
それが外に現れるまでには、かなりの時間がかかったようではあるが、
その経験から生きることや考えることの意味を考えたようだ

連想したのは最近のエッセイのテーマ、プラトンが考えた肉体と精神との関連であった
プラトンに倣えば、肉体の影響が消えた方がさらに深い精神状態に入ることができる
博士もそうであったかもしれない
我々の体も同じよう衰えるが、それが精神の深さに結びつくとは限らない
そのように意識して努めなければ難しいだろう


それを読み終わった時、下の方にハイデッガーの名前があるではないか
ナチスとの関連の他、『存在と時間』についての8回連載の記事が紹介されている
まだ手に触れていない本なので、内容に興味を持って読み始めると夕方になっていた
こういう回り道はこちらに来てから進んでやっているが、大きな発見に繋がることがある

書いているのはマンハッタンにあるニュー・スクールのサイモン・クリッチリー教授
その内容を自らの歩みに重ねて読むと、この生の捉え方が極めて近いことが分かる
全く違和感がない

日本にいる時にフランスの哲学教師から届いた仏版ブログへのコメントを思い出す
それはご宣託と言ってもよいもので、次のようなものだった
「あなたはフッサールやハイデッガーを愛するために生まれてきたのです」
これまで確かめることはできなかったが、その切っ掛けを掴めたような気分である
フランスの哲学の先生がわたしの書くものの中に同質のものを見出したのだろうか
そうだとすれば、専門家の目は恐ろしい

明日以降、今日の印象をまとめておくことにしたい




2018年1月13日土曜日

パリの後は形而上学



昨日は小雨の中を朝からパリへ
パリもどんよりと曇っていた
無事に用事を済ませて日帰りした

コンシュの「哲学者になる」の続きを読む

我々にとって、二つの世界がある
エゴの哲学とコスモスの哲学がある

一つは我々の前にあるもの、そこに開かれているもの
コギト、主体、存在、時間性、ダーザインの哲学
デカルト、カント、サルトル、フッサール、ハイデッガーの哲学である

もう一つは我々とは関係なく存在し、我々を取り巻いているもの
他者と共にいる住まいのようなところ
存在、生成、時間、コスモス、絶対の哲学
スピノザ、モンテーニュ、古代ギリシアの哲学である


哲学は現実の全体についての真理を探究する
それは制限のない無限の世界である
親や師の教えや宗教を信じていると真理の追求にはならない
制限が加わる有限の世界になるからである

デカルトの無限は神であった
スピノザもそうだったが、そこに「即自然(sive natura)」を付け加えた
わたしもそうしたい
世界は我々がいる住まいである

しかし、その境界はどこにあるのか?
我々を取り囲む世界はさらに大きなものに取り囲まれている
エピクロスは我々の世界の果てを星に見た
しかし、こんにちではそれを遥かに超えるところまで行っている

デカルトは無限という「概念」について語った
しかし、それは単なる「概念」ではない
人間は天使がその上を飛ぶように自然の外にはいないことを知っている
いつでも人間を全滅させることができる力に完全に依存していることを感じている
パスカルの「人間は考える葦である」の一節がある
「その葦は自然の中で最も弱い。しかし、それは考える葦である。それを押し潰すためには、全宇宙が武装する必要はない。蒸気、水滴一つで人間を殺すのに十分である。しかし、宇宙がそうしたとしても、人間は殺す側よりも高貴である。なぜなら、人間は死ぬことを知っているが、宇宙は人間に対する優位性を何も知らないからである」
これは神の問題ではなく、高貴さでは人間に劣る力の問題である
なぜならその力は自分のしていることを知らないからである

主体の哲学は人間の現実の存在を捨象している
哲学者は単なる「主体」ではなく、人間を感じなければならない
自然の一部、それも考える一部であることを感じなければならない
それこそが哲学の初めである
しかし、それは初めにしか過ぎない




2016年9月14日水曜日

エマニュエル・フェイ氏インタビュー



今日の昼間、天高く鰯雲が見えた
もう秋である

先日書いたエマニュエル・フェイ(EF)氏のル・ポワン(LP)によるインタビュー記事があった
以下にポイントを紹介したい

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LP: ハンナ・アーレントが崇拝の対象にまでなっているのはなぜ?どのようにして?

EF: まず、ハイデッガーとの関係、そして『イェルサレムのアイヒマン』が巻き起こしたスキャンダル。アーレントはユダヤ人だったので、ハイデッガーにとって都合のいい保証となった。さらに、ナチズムの非ドイツ化(ナチズムをドイツのものとしなかった?)とハイデッガー、カール・シュミットアーノルト・ゲーレンなどのナチスの体制を支えた人の罪を問わなかったことがドイツ時代の成功に結び付いた。

LP: 注釈学者らがこれらの側面を見ていなかったのをどう説明するのか?

EF:ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』 を書いたラウル・ヒルバーグや参照されるべき文献となっているヒトラー伝を書いたイアン・カーショーは、常にアーレントの仕事には批判的だった。 断片的でコンテクストから離れた読み方をする人たちに彼女の名声が留まるところを知らないものなったのは、政治理論、文化研究、それから哲学の領域である。フランスでの受容は、『文化の危機』出版の1972年にハイデッガー主義のリーダーによって仕組まれたものであった。

LP: アーレントを別の視点から見ることを可能にしたものは?方法論は?

EF: アーレントの意図を掴むためには、ドイツ語バージョンを考慮に入れなければならない。例えば、アーレントの「共にある者」( l'être ensemble)は、ハイデッガーの Mitsein (l'être en commun)「共同する者」を訳した空似言葉(faux ami)である。どういうことかを説明しよう。自由な個人が共存する民主的な社会を護ることには問題はない。しかし、そこから排除された人の自然権を全く認めない政治的共同体を推奨することは問題である。そう考えると、アーレントがわたしというものや個人の自由意志に対して攻撃したこと、そしてアフリカ系アメリカ人の権利要求の政治的正当性を認めることを拒否したことがよく理解できる。

同様に、彼女の著作の元にはナチスの歴史家、社会学者、法律家、哲学者が入っていることにも注意を払うことが重要である。最も難しいのは、彼女が対象となっている崇拝と縁を切り、最も受け入れ難い彼女の主張、例えば、ナチス収容所における犠牲者と死刑執行人との間に差を認めないことなどを真面目に受け止めることである。

LP: アーレントが哲学を破壊しようとするというのは言い過ぎでは?

EF: アーレントは哲学の破壊を試みた人の中に自らを数え、「哲学消滅後」に自分を位置付けている。1945年以降のハイデッガーと同様に、彼女が「思想」(パンセ)と名付けた哲学に反対している。わたしの批判は、彼女がアイヒマンに抗するためのモデルとしてハイデッガーをうまく描く時、思想が人質に取られて見えるそのあり方についてです。しかも彼女は間違ってアイヒマンを「思想の欠如」と動機の不在として描いている。最近の研究、例えば、イギリスの歴史家デイビット・セサラニはアイヒマンの伝記において、彼が思想のない死刑執行人だったのではなく、大量虐殺の考えを持つ狂信的な反ユダヤ主義者だったことを示している。

LP: ハイデッガーの思想の痕跡があるすべての人、レヴィナスからサルトルとデリダを経てバディウまで、あなたが確立した関係性に照らして批判的に再読されるべきでしょうか?

EF: 識別は必要です。例えば、レヴィナスはハイデッガーに対して倫理的な要求をしているが、それはアーレントには見られない。『黒ノート』に見られるように、彼が国家社会主義の皆殺しの反ユダヤ主義をどのような過激さをもって自分のものにして行ったのかを発見する時、再検討はその始まりにしか過ぎないと考えて当然だろう。アラン・バディウがどのようにしてハイデッガーの共同体の概念から「共産主義の仮説」と彼が名付けたものを一新したと主張しているのかを見る時、彼が火遊びをしていると考えないわけにはいかない。




2016年9月11日日曜日

アーレント事件



『アーレントとハイデッガー』 という本がもう少しで店頭に出る予定だという
ルーアン大学の哲学者エマニュエル・フェイ(Emmanuel Feye, 1956-)さんの最新刊

Arendt et Heidegger - Extermination nazie et destruction de la pensée

「ナチスの絶滅作戦と思想の破壊」という副題が付いている
この中で、これまで指摘されて来なかったハンナ・アーレントの考え方が指摘されているという
ル・ポワンの紹介記事から簡単に紹介したい

アーレントは1906年にハノーバーで生まれ、1975年にニューヨークで亡くなっている
1933年ドイツを去り、フランスに向かう
1940年5月にはフランス南部のピレネー・アトランティック県のグール強制収容所に収容される
しかし、マルセイユ、リスボンを経て、1941年5月にはアメリカに到着

今や崇拝の対象にまでなっているアーレント
しかし、彼女の作品を読み込んだフェイさんはその思想に大きな疑問を投げ掛ける
彼女はドイツにナチズムの責任を課すことを常に免除していた
ヒトラー出現を許したインテリの決定的役割を一貫して無罪とするように努めた
ユダヤ人虐殺という特殊な歴史を現代、技術、祖国喪失という一般的な考察の中に解消した

戦前に皆殺しを生み出すことに寄与したドイツ浪漫派の思想家を許している
その代わり、反ユダヤ主義の誕生はユダヤ人自身に責任があるとしている
驚くべきことに、人間や民族の歴史的で生まれつきの不平等性を認めている
さらに、人権の基盤を批判し、「人間の尊厳」というのは傲慢な神話であると考えていた
哲学を破壊し、論理的議論や理性を破棄しようという意志を持っていたという

これまでもそこにあった彼女の作品が、なぜこのような視点から読まれることがなかったのか
それが問題になるだろう
崇めて読むのではなく、明晰な批判精神とともに、情報を基にした読書が必要になる
これはポル・ドゥロワさんのご意見で、参考にしなければならない

今回の指摘により、ハイデッガーの影響を受けた哲学者の思想が再検討されることになるだろう
アーレントに始まり、レヴィナスハンス・ヨナスメルロー・ポンティなどが被告席に座るだろう
そう指摘するのは、アラン・フィンキールクロートさん

真実の姿はなかなか見えないものである
ものはそこにあっても目に入らないことが如何に多いかについてはいつも気付いているからである
今回の件について確認する時間がないのは残念である


これまでにもハイデッガー、アーレント、フェイさんについては何度か触れていた

ハイデッガーの二つの顔(I) (2006-07-09)
ハイデッガーの二つの顔(II) (2006-07-10)
ハイデッガーの二つの顔(III) (2006-07-11)

ハンナ・アーレント 「精神の生活」 La Vie de l'esprit - Hannah Arendt (2008-12-07)
映画 "Hannah Arendt" を観る (2013-04-26)
ハンナ・アーレントさんの人生と思索の跡を観る (2013-04-27)
知ることと理解することの間にあるもの (2013-04-28)
ロスコフ3日目、充実の日が続く(2013-10-07)
ハイデッガーの 『黒のノート』 (2014-02-11)