この一週間の考察を自分に引き付けて考えてみる
どこが似ていて、どこが異なっているのか
人間は死に向かう存在である
この事実はほとんどすべての人が知っているだろう
しかし、それを真に理解しているのかと問われると、かなり怪しいものがある
そう言えるのは、自分がその違いをはっきり認識できた時があるからである
これまで何度か触れているが、それは退職の数年前のことである
死で終わる自分の有限性が見えた時、生き方に対する真剣な問いかけが起こった
つまり、すべてが終わる前にやることがあるとすれば、それは何なのかという問いである
生れて初めてのことであった
これは、ハイデッガーの言う真正な(オーセンティック)自分になることと関係してくる
その問いかけが起こる時は、凡庸さの中にある日常との決別がある
そこには強い決心が伴っている
そしてその時、自由に考えることができるようになるという
このような経験を持つことが、哲学に入る道を開くのではないだろうか
それは如何に生きるべきかという問いを前にしたものである
そして、それは取りも直さず、真の自分になることへの道でもある
哲学者には前と後があると言われるが、それはこのことを指しているのだろう
それから人間は死を前にすると、感受性が増すと言われている
私の場合、視覚を介するものの感度が著しく増したように思う
それは景色や映像のこともあるが、特に言葉に対する感受性であった
それまで右から左に流れていたものが、しっかりと捉えられるようになったのである
これはある意味で聴覚、さらに言えば思考に対する感度の上昇でもあった
人間は時間であり、それは有限であるという
過去の遺産を背負い、未来に向けて歩み出す時に、過去が解き放たれる
過去・現在・未来が一体になった、創造的にさえなり得る統合された時間がそこに生まれる
有限の時間をこのように創造的なものにするのが人間の生ということになるのだろうか
このような認識は、こちらに来る前から私の中にあったものである
過去の自分を現在に引き戻す(2007.1.30)これを基にした生き方に違和感はなく、この10年ほどそれを実践してきたようにも見える
当時ご宣託を送ってくれたフランスの哲学教師には、その兆しが見えていたのだろうか
その一方、ハイデッガーの中には人種差別的思想があった
特に、根無し草のユダヤ人には人間としての価値を見ていなかった
普遍主義やアングロ・サクソン文化への嫌悪のようなものがその底にあったとされている
この点は私のこれまでの考え方や生き方と大きく異なるところだろう
普遍主義ついても批判的に見るべきだが、それを全面否定する立場ではない
二つの極端があった時、両者の中にある優れた点を見ようとする立場である
振り子が一方に振り切れる時、いろいろな場面で破滅が見られたからである
いずれにせよ、判断する前には現物に当たってみなければならないだろう
いつものように、それがいつになるのか分からない
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