2019年12月31日火曜日

依然、霧の中



朝、シャッターを上げるとこの景色が広がっていて、小さな驚きとなぜか喜びを感じた
変化が齎す喜びだろうか
昨日の写真とほぼ同じところなので、比較すると興味深い

昨夕の景色からは何かが明らかにされ、それが目出度く終わりを告げるような印象を受けた
しかしそれは錯覚で、まだまだすべては霧の中なのだと言われているような今朝の眺めである
新しい年も目の前の霧を払い除ける作業を続けなければならない

そんな解釈が浮かんできた今年最後の朝である





結局、今日は一日中霧の中であった
明日は晴れてくれるだろうか












久し振りの至福の時間



今日は快晴だった
朝の強い光を浴びて紫煙を眺める
至福の時間だ

同じことを日本でやってもこの感覚は得られない
自らに纏わりついている地上の要素が、こちらではどこかに飛んでいくからではないかと疑っている
やらなければならない諸手続きを済ました後は何もやる気が起こらず、その時間を味わっていた

夕方、散策に出た時は地平線に沿って薄っすらと色づいているだけだった
しかし、アパルトマンに戻ると、その色はさらに濃くなっていた
地上の時間は流れている





2019年12月29日日曜日

何とかトゥールに戻る



パリ最終日の昨日は日本からのお客さんをソルボンヌ近くのレストランでお迎えした
もう十数年振りではないかと思う
わたしがこちらに来た経緯やこれまでに考えてきたことなどを中心にお話することになった
又の機会を期待したい


そして昨夜、トゥールに戻った
今回はストのお陰で、久しぶりにパリの観光客としてゆっくり過ごすことができた
そのためか、日本から戻ったという感覚がない

それはよいのだが、天国の後には地獄が待っていた
まず、大きく重いスーツケースを持ってメトロの階段を上下するのを甘く見ていた
前回も気付いていたのだが、まだ大丈夫だろうと思って突進した
途中で数名の方から声がかかったが、断って一人歩いた
それはなかなか厳しく、殆ど失神寸前だった
歩いている時から、次回は必ずタクシーを、という声が聞こえた

艱難はトゥールに着いた後も待っていた
交通機関が真面目にストをやっているではないか
これは予想していなかった
タクシーもストをやっているかと思うくらい、いくら待っても来ない
仕方なく、歩いて帰ることにした

平地を歩く分には問題ないと思ったからである
予想通り、30分ほどの歩きで23時前にはアパルトマンに辿り着いた
何が起こるか分からない

しかし今回も、こころの揺れが全くないのだ
外から見るとストレスがかかっているような状況だが、それが見られないのである
この10数年の経験はどうも本物らしい


この間、スーツケースの扱いについて考えていた
何年か前までは、二回りくらい小型のものを使っていた
その時は、あんな大きなスーツケースでよく移動していたものだと思っていた

それが何かの切っ掛けで、紙の資料を多く持っていくことにして以来、大型のものに切り替えた
そして、よくあんな小さなものを使っていたなぁと思っていたのである
今回の経験から、再び小さなものにしてはどうかというアイディアが浮かんだ

大きなものと決めてしまっていたので、入れられるだけ入れるというだらしなさが生まれる
小さなものと決めれば、入れるものを選別することになるだろう
そうすれば、移動にもそれほどの負担が掛からなくなるのではないか

次回の参考として考えておきたい






2019年12月28日土曜日

映画 J'accuse を観て、最近の傾向を確認する



昨日も朝から外に出て、最近の頭の中を整理する
これから読むことにしているメチニコフの『感染症における免疫』の構成を眺める
それから、先日のシネマで見付けたロマン・ポランスキー監督の J'accuse を観ることにした

言うまでもなく、ドレフュス事件を題材にした映画である
タイトルは、エミール・ゾラ L'Aurore 紙に発表した『私は弾劾する』から採られている
主役は、ドレフュスがスパイではなくエステルアジであることを突き止めたジョルジュ・ピカール
ドレフュスもピカールも弾劾されるが、最終的に名誉が回復され、ピカールは戦争大臣にまでなる
映画にはゾラも顔を出していた


これは最近の傾向なのだが、昔は感動しただろうと思われるものにも余り感じなくなっている
テレビなどのドキュメンタリーを観ても同様で、心底感心するものが少なくなっている
おそらく、史実や現実の方がもっと重いはずだという感覚があるからだろう
そして、映像はその表層をなぞっているものにしか見えなくなっているからではないだろうか

自分の中にしっかり刻み込まれるためには、自分の頭と体を動かさなければならない
本を読み、資料に当たり、そこから広がる世界を自らが構築し直すことが欠かせない
その基本を理解するようになったため、作られた映像では物足りなくなっているのではないか
この映画もそんな思いと共に淡々と観ていた













2019年12月27日金曜日

映画 "Une vie cachée" を観る



昨日の朝は、パンテオンが見えるカフェから始まった
少しだけ肌寒く、小雨交じりになる
このような時期、プロジェから離れて思いのままに思考を羽ばたかせるのもよい

午後から、テレンス・マリック(1943- )監督の Une vie cachéeA Hidden Life)を観る
初めての監督だが、哲学に造詣が深いとのことで興味を惹かれる
2011年の The Tree of Life のトレーラーを観たが、もう少し調べてみたいと思わせてくれた

映画を観た感想を思いつくまま
まず、画面のすべてをしっかり捉えているという感覚があった
それはそのすべてを既に観ているという感覚から生まれているように感じていた
兎に角、山岳地帯の景色が雄大で美しく、生活も伸びやかなので気持ちが広がる
そして、カットとカットの間が厳密ではなく、景色が変わるところに自由を感じた

主人公のフランツは自分が悪だと思うことはできないという内なる声に従い、死の判決に従う
それにより親や妻や子供たちに辛い思いをさせることになることを知っていても
もう少し待てば普通の生活(simple life)が戻ってくるかもしれないというのに
simpleという言葉の意味を思い知らせてくれる

本人以外には理解するのが難しい判断である
妻はいつの日か、そのことの意味が分かる日が来るのかと問う
結局のところ、人はなぜ生きるのかという問いに行き着くのではないだろうか

タイトルの由来となったジョージ・エリオットの詩がエンディングに出てきた
“The growing good of the world is partly dependent on unhistoric acts; and that things are not so ill with you and me as they might have been, is half owing to the number who lived faithfully a hidden life, and rest in unvisited tombs.”
世界の善が増えているのは、一部ではあるが歴史に表れない行為に依っている。事が我々にとってそれほど酷いものにならない訳の半分は、目立たない人生を忠実に送り、誰も訪れない墓に眠る人たちのお陰なのである。
そのことを折々に思い出し、確かめる必要があるのだろう

日本では来年2月から「名もなき生涯」というタイトルで公開されるという













2019年12月26日木曜日

相変わらずのカルチエ・ラタン散策



昨日も朝から近くのカフェで時を過ごす
手に入れたばかりの技術に関する本のあとがきに目を通す
執筆から30年以上を経ての回顧である

それによれば、執筆当時は大陸哲学の影響を受け、観念論的、文学的傾向があったという
それから、ジルベール・シモンドン(1924-1989)を読み、分析哲学をやるようになる
そして決定的だったのが、生命倫理の現場に関わるようになったことである
科学者や他の領域の研究者と交わることにより、科学技術や功利主義に対する見方が変化してきた
功利主義の中にある最大多数の最大幸福や個人の開花を重視する考え方などを評価できるようになった

カフェを出た後、セーヌ方面まで足を延ばす
ノートルダム大聖堂は上の写真のように、想像していたよりはましであった
リブレリーが閉まっている中、ブキニストはセットアップを始めていた

観光客気分でゆっくり歩き回る
12世紀のサン・ジュリアン・ル・ポーヴル教会でコンサートがあるとのことで、中を見る
こじんまりした素朴な感じのするところであった











2019年12月25日水曜日

散策、ソルボンヌあたり



昨日の午後、ソルボンヌ界隈をゆっくりと散策
兎に角、学生時代を思い出させることが至るところに刻み込まれている
しかし、何の感傷もない

上の写真は「医学のあゆみ」エッセイシリーズを始めた時に使ったものとほぼ同じ場所からのもの
ただ、当時のものは緑と人が溢れ、夏の生気が漂っていた(こちらから)
もう8年前になる
そしてそこには、当時は何の意味もなかったオーギュスト・コント像がはっきりと写っている

そのエッセイシリーズもこれから9年目に入る
当時は1-2年の予定だったので、ただただ驚くばかりだ
ただ、自分の中では8年前はすぐ横にある
この感覚は、人類の歴史についても言えそうだ
初回のタイトルにある「人類の遺産に分け入る旅」がこれからの人生をどう見ていたのかを示している

ソルボンヌ広場に面した哲学専門書店Vrinで数冊
それからコンパニー書店でも暫しの間遊び、数冊
ただ、昔のような目に入るものに対する抑えることのできない熱は感じられない
静かだが、敢えて言えば成熟した興味のようなものが確実にそこにある

右のコラムを見ると、最近読まれた記事の中にロンサール(1524-1585)に関するものがある
そのロンサール像がコレージュ・ド・フランス前のオーギュスト・マリエット・パシャ広場にある
すっかり苔生していた











2019年12月24日火曜日

クリスマス・イヴのパリ



パリの朝は8時頃から明るくなり始める
道が雨のためか光っているが、いまは降ってはいない
早速、街に出ることにした

8時半には朝市が始まっている
クリスマスシーズンだからかもしれない 
昨夜、クリュニーのあたりを通った時にもシーズン恒例の小さな小屋を沢山見かけた

初めての朝は、サンジェルマンのカフェに落ち着く
イヴの朝は静かで、読書をする中年女性とメモを書いているアメリカから来た女性だけだ
今回、期せずして至福の時間を味わうことになった

今日の予定をぼんやりと思い描く
これは一日を彫刻する作業と言えるだろう
アファナシエフから霊感を得た表現で言えば、こんな感じである
無限に広がる平野を前にして、こころの底から湧き出る欲求を拾い上げてその方向に進む

日本から来たばかりなので、少しだけパリを観光地として味わうことができているのだろうか
新鮮である
トゥールから来た時にはそうはならない
これからもフランスに入る時には、気分が向けば試してみたい

今朝はそのカフェからのアップとなった









無事にパリ到着



本日、東京を出て無事にパリに着いた
そう言えば、クリスマスシーズンであった
いろいろなところで飾り付けがされていた
それにしても、年の瀬を迎えているという感覚がないのはどうしたことだろうか

今回久しぶりにJALに乗ったが、食事にかなり力を入れているような印象を持った
それから、これまでであればシートベルト・サインが出るような揺れでも一切オンにしなかった
結構揺れることもあったが、結局一度もランプの点灯はなかったのではないだろうか
その方が落ち着いていられるようにも感じたが、どうだろうか





2019年12月21日土曜日

ゼネストで予定が狂う



来週からフランスの予定である
そんな折、SNCFからメールが届いた
現在進行中のゼネストのため、空港からトゥール行きのTGVがキャンセルになったとのこと
調べてみると、来週一杯は1-2本は出ているもののすべて満席

これまで、またやってると横目で見ていたが、実生活への影響を想像できるようになっている
兎に角、やる時は徹底的にやるという国民性を見る思いである
結局、来週一杯はパリで過ごすことにした
こんな予期せぬ出来事にも何か意味があるのではないか、というのがいまの受け止めである

それにしても、このような事態に遭遇してもこころは全く動かず平静なのだ
この世界のすべてを何もなかったかのように受け入れるという態度である
何年か前に気付いたことで、自分で言うのも何だが、殆ど悟りの境地ではないだろうか






2019年12月19日木曜日

今年を振り返る



昨年から今年にかけて大きな内的変化を経験している
その中身を振り返ってみたい


昨年の後半あたりから、一日が長く感じられるようになってきた
当時の記述を読むと、その感覚がいつまで続くのかと疑問符を付けて見ていた節がある
しかし、今年一年を通してその感覚は維持されていた

今年の終わりに向けて、この感覚は一週間、さらには一年にも及ぶようになっている
例えれば、一年がこれまでの二年くらいに感じられるのである
ということは、一体どういうことになるのだろうか


それから、仕事をする時の心構えが決まってきたようである
長い間、仕事に取り掛かることに困難を伴っていた
ここで何かを纏めなければならないという思いが強くなり、逆にやる気が失せるのである

おそらく今年、考え方が大きく変わり、仕事をすることに全く抵抗を感じなくなってきた
それは次のようなことである
何かを纏めようなどと力むのではなく、ある時間を自らの思考空間に遊ぶと考えるのである

このお陰で精神的に楽になり、進捗状況とは関係なく、仕事をすることが楽しくなってきた
これが仕事をすることの神髄だと理解したからではないだろうか
それは同時に、期限を切って何かをやるという考え方そのものを疑うことに繋がったのである


これらすべては、期せずして自らの観察を続けてきた結果ではないかと考えている
静かな時間や瞑想的な生活が齎したものではないかと考えている
これから先に新たな段階が続くとすれば、それは一体どのようなものになるのだろうか

いずれにせよ、これからも観察を続けることになるだろう
何せ、J'observe donc je suis. がわたしのドゥヴィーズなのだから






2019年12月17日火曜日

サイファイ研ISHEのプロジェクト2019を振り返る



2019年の終わりが見えてきたので、今年のISHEプロジェクトを振り返ることにした
このようなプロジェクトを始めたのは2016年からだが、いつも半分くらいの出来という感触である
今年もその例外ではない

メインのプロジェクトと考えているものについて、この秋は集中するつもりでいた
各種カフェをお休みにしたのもそのためである
しかし、その過程で見えてきたもの
それは、これまでやってきたはずなのだが、本当にやっていたのかという訝しい感じであった

次々に問題に気付き、全く満足できないのである
いろいろなことをやっている時には、問題に意識が集中せず、流されてしまっていたのではないか
このような状態に陥りやすいことに注意しながら、これからはことに当たりたい
最終的には、自分が終わったと思うところまでやることになりそうである

ISHEサイトに今年のプロジェクトの詳細を纏めた






2019年12月14日土曜日

人間ワレリー・アファナシエフを観る



昨夜、こんな低いところに、こんな大きな満月が!と驚いた
しかし、その大きさも卵の黄身のような黄色も再現できていない
月を撮ろうと思う時、いつもわたしのカメラに感じるフラストレーションである


昨日の朝、NHK-BSでロシアのピアニスト、ワレリー・アファナシエフ(1947-)の特集があった
冒頭は見逃したが、大半を観ることができた
もう10年以上前になるが、ピアノに留まらない芸術活動に関わっている人として知った
当時はピアノの演奏を聴いた程度だったが、この特集ではいろいろな側面を見ることができた

この芸術家を支えているのは、詩的な感性と哲学的な思考だろうか
音楽の中のことだけではなく、音楽という人間の活動について考えている
この二つの対比は非常に重要で、多くの場合、後者が欠けているのだ
そして、自然を含めた外界に対する鋭い観察眼だろう

印象に残る言葉が次々と出てきたが、例えばこんな具合である

ロシアにいる時には自由はなかったが、西側に出れば手に入ると思っていた
しかし、そうではなかった
商業主義が支配していたのである
そこで重視されるのは芸術ではなく、売るための話題性である

現代は本物の芸術、天才を必要としていない
普通の人よりちょっとだけ優れた人を売り出し、それを次々に消費していけばよいのである
現代に真の芸術を生み出す力はないとも言っていた
先日の丸山健二さんも、同様のことが芥川賞などで行われていると語っていた

アファナシエフさんは、現代人が重んじるのは事実であって、精神ではないと言っていた
これは科学時代の現代の本質を突いた言葉である
科学は精神を拒否して事実に拘るので、現代の重い症状は必然なのである

彼は若い時、友人から能の音楽を紹介され、感銘を受けたという
そこに懐かしさも感じたようだ
また、日本の古典文学にも共感
例えば、源氏物語や吉田兼好のように世俗を離れて自由を得た文人の作品などに

さらに、日本の自然(京都嵐山の映像があった)にも感じるところがあったようだ
しかし、そこに留まりたいとは思わないとのこと
なぜなら、そこで感じたものは自分の中に常にあるものだから

あることの本質的なものを掴んでしまうと、それが存在するかしないかはそれほど重要でなくなる
その存在は本質として自分の中に常にあるからだ
そういう感覚はわたしの中にもある

芸術は過去への回帰がなければ駄目だとも言っていた
過去の参照、追憶、、
ブラームスは追憶ほど大切な感情はないと言ったと彼は指摘していた
これはフランスで生活するようになってからのわたしの感覚に近いものがある

モスクワ音楽院のレッスンで、学生に話していたこと
目の前に広い空間を意識し、そこから音が生まれ出る様を表現するようなイメージで
これは言葉についても当て嵌まりそうなイメージである
さらに言えば、生きるということに関しても

その他、静寂を聞くとか、時の流れは見ることはできないが、聞くことはできるという言葉もあった
そして、「絶対的真理」という言葉を耳にした時、この人の知的姿勢が見えたような気がした
孤独の中で、一体何に耳を傾けてきたのだろうか


番組は10年ほど前のもので、当時はベルサイユに居を構えていた
現在は72歳でベルギーに移り住んでいるとのこと

濃厚な時間を味わった





2019年12月13日金曜日

科学における形而上学の役割を再考する



エッセイシリーズ「パリから見えるこの世界」の第86回のご紹介です

 「形而上学とは、そして科学におけるその役割を再考する」
  医学のあゆみ(2019.12.14)271 (11): 1255-1258, 2019 

形而上学をどのように理解して実践にまでもっていけばよいのか
科学が捨て去った形而上学に何らかの役割はないのか
これらの問いを考え、形而上学に新たな意味を見出そうとする試みについても触れています

図書館や書店などでお目通し頂ければ幸いです
なお、1年を経過したものについては ISHEのサイトに公表しています
よろしくお願いいたします





2019年12月11日水曜日

来年のプロジェを考える



来年に向けてプロジェをぼんやりと考えていた
今の段階でのアイディアを先日サイトにアップしたが、今日新たな考えが巡っていた
それは特に記載する必要もないだろう

殆どのプロジェは期限を切ってのものではなく、ゆっくり進めるものばかりである
その意味ではアップの必要もないのだが、忘備録として書き留めておくことにした

それとは別に、カフェやフォーラムはISHEの定期的な活動として続ける予定である
今年は後期の活動が滞ってしまったので、来年はそうならないようにしたいものである
これからも皆様のご理解とご協力をいただければ幸いである






2019年12月6日金曜日

舘野泉さんの病気と音楽



NHK-BSでピアニスト舘野泉さんの特集を観る
まだ観たことのないものだったので、この偶然に感謝
時間が消えるよい朝となった

病気の後に間違いなく世界の見え方が変わったと思われる
今は音楽と共にゆっくり在ることの幸せを味わっているようであった
「音楽とは生きること」というのが、辿り着いた境地
ある意味で、この間ずっと哲学してこられたのではないだろうか
また、自然と共に生きている様子もなかなかよかった

番組が病気の意味を再び考えさせるものとなった





2019年11月30日土曜日

いよいよ師走



知らない間に師走を迎えることになった
今や一年の内のどこにいるのか分からなくなるような感覚が生まれているので不思議ではない
絶対時間のようなものを体験しているのだろうか

そろそろ今年もまとめをしなければならない時期になったということでもある
2019プロジェを振り返る作業である
と同時に、2020の絵を描かなければならない

これらの作業は非常に重要だ
この生き物にはどのような癖があり、どの程度の機能があるのかが見えてくるからだ
つまりそれは、ソクラテスが言った意味での哲学にも通じる






2019年11月28日木曜日

思いがけない変化



寒さに厳しさが増してきた
しかし、バイカル湖で寒中水泳をするご老人たちの姿を見ていると、まだ大したことではない

実は暦が消えつつあるのだが、それにしてもまだ水曜だったのか、というのが昨日の感想
それだけ一日を十分に摘み取っているからなのだろうか
この一週間はなぜか朝から動き出すようになっている
朝から夜まで、しかも集中を切らさずに

これは驚くべきことである
それにもかかわらず、前に進んでいるように見えないのも驚きである

しかし重要なことは、集中の中にいる時間をどれだけ長く取れるかではないか
その間、永遠という至福の時を過ごすことができる
その中にいなければ気付き得ないことにも気付かせてくれる
そして、そこでは時間が流れていないので年を取らないことにもなる





2019年11月27日水曜日

生物における情報を考える




新しいエッセイが雑誌「医学のあゆみ」に掲載されました
 
エッセイ・シリーズ「パリから見えるこの世界」の第85回
 
  生物における情報の流れ、あるいは情報の定義は可能なのか
 
医学のあゆみ(2019.11.9)271 (6): 625-629, 2019





2019年11月24日日曜日

秋野亥左牟の在り難き生き方



今朝は在り難いものを見せてもらった
日美が秋野亥左牟(1935-2011)という芸術家を取り上げていた
初めての方だったが、その生き方には感じるところ大であった

第二次大戦敗戦直後に180度変わった教師の言葉に大人の社会に不信感を持つ
共産党に参加して扇動されるままに行動
しかし、後にそれは一部の跳ね返りの行動とされる

それから、母親の日本画家秋野不矩(1908-2001)と一緒にインドを訪問したのが転機になる
おそらく、人間の根源的な生き方に目覚めたのだろう
現代文明が浸透するそれまでの日本での生活がはっきり見えてきたのではないだろうか

それ以降、文明の垢(経歴や自尊心など)を剥ぎ取るように努めた
そして、旅に出、時には地に根を張る生活を続ける
後年は島で暮らしたり、絵を見せ、自らの体験を語る旅に出たりしていたようだ

亥左牟氏が語っていた「他の火にあたる」という言葉が紹介されていた
旅に出た土地で全身を晒し、それにより自らを変容させようとしたのではないだろうか
晩年は兵庫の里山で暮らし、76歳で亡くなった


先日、わたしの中に「まだ何も始まっていない」という感覚があると書いた
その中に、このような生き方への願望のようなものが含まれているのではないか
そんな思いとともに、在り難いが故に有難い人生を垣間見させてもらった日曜の朝である






2019年11月21日木曜日

朝はリラックス、夜は集中



単調な日常である
最近の傾向は、朝から動き出さないことだろうか
そう決めてやっているというより、何もしないで朝を味わいたいという欲求に負けているだけである
それで何の問題もないと考えるようになっている
その何もしない時間がひと日の後半へのエネルギーとして生きてくるようだ

もう一つの最近の特徴は、夕方から夜にかけて非常に集中力が増してくることだろうか
それが可能になる空間を見つけたことが大きな要因になっている
これは信じられない嬉しい変化である





2019年11月17日日曜日

ガラスが隔てるもの



この1週間ほど外の世界に出ていたが、非常に長く感じた
これは最近の感覚なのだが、時の流れがゆったりしているのだ
ひと月が数か月に感じる
より正確には、無限の中にいるような感覚と言ってもよいだろう

そして、再び静かな時間が戻ってきた
今朝、ガラス越しに外の景色を見ている時、ガラスが邪魔しているものに気付く
暫く前から感じていたことだが、ガラス窓を開けた時に見える景色の生々しさが失われているのだ
今日もその生々しさを味わうため、寒い中ガラス窓を開け放ち、久しぶりに紫煙を燻らす
朝日に漂う紫煙の美しさに気付いたのはパリにいた時だが、その至福の感覚は今でも失われていない
暫しのメディタシオンの時間となった




2019年11月15日金曜日

学友との恒例のデジュネ



本日はこのところ恒例となった学友とのデジュネがあった
お二方ともまだ仕事をされているようだが、そろそろ引き時が頭に浮かぶことがあるという
スポーツ選手などはその時期は早いが、人間である以上その時はいずれ誰にでも来る
難しい判断になるのだろうか
その割にはお元気そうであった

話題はいつものように何が出てくるのか分からない
最初は最近亡くなった後輩の話が出ていた
私と食事中に亡くなったという話を聞いたとのこと、人の噂は当てにならない
私は長いお付き合いだったので感慨深いものがある
周りに気を遣う人であった
私のエッセイは客観的に(第三者の作品として)読んでくれていたようで、コメントは参考になった
と同時に、元気を与えてくれるものが多かった

それから日本の古い美術の素晴らしさも話題に出ていた
私の方は、訪れたことのある古寺の仏像の印象などを語る程度
それとは別に、日本に帰ると観る番組として新日本紀行を挙げ、日本の古層にある風景に言及
都会にいると非現実に見えるかもしれないが、現実である

日本と言えば、最近の政治の体たらくは一体どこから来ているのだろうか
批判的な目を持つことだけがその機能のはずのマスコミが全く駄目になっているからか
昨日の丸山氏ではないが、それでなくても「もの・こと」をしっかり見ることが苦手な我々である
歯止めが利かなくなるのは当然の帰結か

その根には、考えなくなっている我々の日常があるのではないだろうか
数字がすべての基準として幅を利かすようになり、我々は考えなくなってきた
この傾向は新自由主義が入ってくる以前の20世紀中頃には明らかになっていた
実証主義的思考が優勢になってきたことと関係があるように見えるのだが、、
ハイデッガーではないが、計算的な思考には強くなったが、真の意味での思考ができなくなっている
考えることができる人間が増えなければ、根本的には変わらないような気がする
それとは別に、変わらなくてもよいという考え方も根強いように見える

冒頭の引退の話を突き詰めれば、人間としての引退もいずれ訪れる
それは突然のこともあるだろうし、だらだらと引きずることもあるかもしれない
いずれにしても先のことを心配しても始まらない
その厳然たる事実を認めた上で、日々励むしかないのだろう
あるいは、それを真に認識できれば、励まざるを得なくなるだろう
そんなところでお開きとなった







2019年11月14日木曜日

「丸山健二さん トークイベント」に顔を出す



今日は神保町界隈で時を過ごす
夜、作家の丸山健二さんがトークイベントをやるというので、お話を聴くことにした
東京堂書店の6階ホールが会場であった

タイトルは本人のご指名で、最近作の題と同じ「人の世界」
現在75歳で、過去50数年第一線でやってきたが、このような例は少ないと言っていた
よく出ていたのは、現在の出版界の厳しいお話だった
新作は書いているが、出す出版社がないという
昔はマンガなどで儲けた分で文学を出すところもあったが、今はないようだ

丸山氏によれば、文章そのものを冷徹に見ると、日本文学の主流は幼稚で自己愛に溢れている
人の世界の生々しさから目を逸らしているが、それは本当の文学なのかと言うのだ
夏目漱石が未だに最高峰と言われるが、その後の文学者は一体何をやっていたのか
丸山氏に言わせれば、近代文学を始めた人としてはそれなりだが、漱石も大したものではない
まだまだやるべきことがあるという

日本文学が駄目になったのは、小説を商品として扱うようになったからだとの見立てである
作家と編集者、時に評論家などが相互依存の関係になり、事情で仕事をするようになっているようだ
丸山氏は表現の可能性を求めて、新しい文体を開発するのに5年は費やすという
日本にそんな人はいないと言われたと話していた

自分が会得したものをこれからの人に教えるべく塾を開いているという
1から20までのレベルがあり、芥川賞などは2-2.5程度
ピアノで言えば、「猫踏んじゃった」のレベルとのことで厳しい
氏は15位まで行っていると見ていたが、最近最高レベルは30位ではないかと考えているようだ

昔から作家はその気になってポーズを取ったり、酒を飲んだりしていた
今でもそういうところがあるのだろうか
丸山氏は、本当の文学者は酒ではなく、牛乳を飲まなきゃ駄目だと言っていた
その真意は分かるような気がする
文学にとって重要なのは、自分を見る目、人を見る目、正確に生々しい姿を見る目だという

最後に会場から、海外の作家では誰を評価しているのかという質問があった
それに対して、ホフマンスタールの『騎兵の物語』は凄いが、『影のない女』はいただけないとのこと
それから、マルグリット・デュラスの作品(『夏の雨』??)を挙げていた


わたしはおそらく20歳を境に文学を読まなくなったので、深いところまではよく分からない
しかし、先日の科学の会に比べると、「分かった感」には雲泥の差があった




2019年11月13日水曜日

「これからの微生物学」シンポジウムで科学の言葉を再考する



昨日の午後は『これからの微生物学』出版を記念してのシンポジウムに参加した
会場は国立国際医療研究センター(NCGM)の大会議室だった
最初、間違って奥の方まで行ってしまったが、若手の研究者が親切にも会場まで案内してくれた
これで最近の若者を特徴付けることはできないだろうが、気持ちの良い対応であった

シンポジウムの初めに訳者として紹介され、ほんの一言、本の宣伝をさせていただいた
トップバッターはパスツール研究所のパスカル・コサール教授
専門のリステリア菌について、未発表のものも含めた最新の成果が発表された

聴衆として彼女が頭に置いていたのは、この領域の専門家だったと思われる
そう理解したのは、明日の岡山は聴衆が違うので調子を変えると言っていたからだ
今日は普通の学会発表と全く同じであった
分野違いの専門家や一般人は理解できなかったのではないだろうか

哲学に入ってから感じているのは、科学の発表は分かり難いということである
科学に溢れる専門用語や略語はまさしく身内にしか通じない隠語で、普通の人の理解を妨げる
同じ略語は分野が変わると全く意味が変わることもある
しかも脈絡の説明をできるだけ短くして、事実に集中する
したがって素人には、相互の関係が分からないまま事実が羅列されるだけに見えるのである
今回もそのことを痛感していた


科学の内容を如何にプレゼンテーションするのかは大問題である
その昔に読んだイギリスの免疫学者ピーター・メダワーの言葉が今も鳴り響いている
それは次のようなものである

 優れた科学者が時に分野違いの雑誌を目にすることがあるかもしれない
 しかし、そこに何が書いてあるのか理解されなければ大きなチャンスを失うことになる
 
当時は狭い範囲の人をイメージして書いていたので、そんな人もいるのかという感じだった
しかし今は、優劣は別にして、異なる分野を覗く人になっている
この言葉は、できるだけ多くの人が理解できるように書くよう努めよ、という忠告である
自分の仕事をできるだけ広いパースペクティブの中に入れて捉えよ、ということだろう
それは言葉遣いを易しくすることと同じではない
この問題は科学に限らず、あらゆる専門について言えることで、哲学も例外ではない
わたしにとってもこれからの大きな課題になりそうである


シンポジウム後半では、現在の大問題である薬剤耐性(AMR)が議論された











2019年11月11日月曜日

デジュネの後は平凡な一日



今日は半世紀前からのお知り合いと東京を眺めながらのデジュネとなった
これまで通りイタリア語の習得に余念がないと受け止めた
また、わたしの中には「まだ何も始まっていない」という感覚がある
その言葉を発した時、「まだ何かやり始めるつもりなのか」と完全に呆れられてしまった

その後はプロジェに当たる平凡な一日
人生とはそんな歩みの積み重ねなのか





2019年11月10日日曜日

パスカル・コサール教授との会食、そして講演会のリマインダー



日本パスツール財団の渡辺さんのお誘いで、パスカル・コサール教授と夕食をご一緒した
気さくなお人柄で、今日日本に着かれたばかりとのことだったがお元気であった
彼女の著書『これからの微生物学』を訳したご縁でいろいろなお話を伺うことができ、幸いであった
明日から講演が続くようだが、わたしが関係している会のご案内を再度しておきたい


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日本パスツール財団と国立国際医療研究センターの共催でシンポジウムが開催されます

これからの微生物学 ー 我々は微生物といかに付き合うべきか?
 
日時: 2019年11月12日(火)14:00 ~ 17:50


会場: 国立国際医療研究センター 研修棟5階 大会議室
   (〒162-8655 東京都新宿区戸山1-21-1)




プログラム 

参加は無料ですが、日本パスツール財団への申し込みが必要になります 

参加申込書 

宛先: 一般財団法人 日本パスツール財団 事務局
    中村 日出男 /  大谷 恵子
    TEL: 03-6228-5361    FAX: 03-6228-5365
    E-mail: jimukyoku@pasteur.jp

興味をお持ちの方の参加をお待ちしております








2019年11月9日土曜日

第6回サイファイ・フォーラムFPSS、盛会のうちに終わる



本日の午後から第6回FPSSが日仏会館で開催された
今回は新しい方を含めた多くの皆様の参加があり、活発な議論が進行していた
いつものように時間が足りなくなるくらいであった

話題は以下の二つであった
(1)武田靖氏の「科学と技術の本質的な違いについて ― 実践者の立場から」
(2)武田克彦氏の「神経心理学からみた意識について」
要旨はこちらにあり、発表のまとめと参加者からのコメントを同じページに載せる予定である


お忙しい土曜の午後の時間を割いて参加された皆様に改めて感謝いたします
暫くの間は未発表の賛同者を中心に発表していただくことを考えております
次回も主宰者の方から話題提供をお願いする予定です
無理のない範囲でご協力いただければ幸いです

また、懇親会ではこれからの会の構成や進め方についてのご意見が聞こえてきました
正式なコメントとして届いた段階で、今後の運営に生かしていきたいと考えております
今後ともご理解、ご協力をいただければ幸いです







 

2019年11月4日月曜日

庭の朝露と共に今日を思う



本日は見事な快晴
今朝はこれまでになく寒いように感じた
庭の朝露が日の光に輝いて美しい
枯れた草の中にもまだ花を咲かせているものがある
植物の逞しさを見る思いだ
さて、今日はどんな日になるのだろうか




2019年11月1日金曜日

哲学にとっての現代性



田中美知太郎の『人間であること』所収の「哲学にとって現代性とは何か」を読む

哲学には決まった対象がないので、どの時代のどんな問題についても考えることができる
そこで問題になるのが、現代の問題を扱う際の理由をどこに見出すのかという問いである

ヘーゲルは『法の哲学』の序文で、次のようなことを言っている

  我々は時代の子なので、その理解は時代の制約の中にある
  その外に出られると考えるのは妄想である

それ以来、哲学は現代の問題を扱わなければならないとされているという
田中はそのことを問い直すためにヘーゲルの真意を探る

ヘーゲルは現実国家を理解することが重要で、あるべき姿を語ることではないと考える
彼は「ミネルバのフクロウは黄昏に飛び立つ」と書いた

哲学は出来事が完結した後、アポステリオリに考えるものだという主張である
何かが終わってから始まる営みが哲学だという見方である
従って、あるべき世界を語る時には「こと」は終わり、間に合わないというのである

これに対して田中は、歴史が絶対的な完成を見ることはないと言う
従って、我々は時代と相対関係にある
哲学の保守的現実肯定は続くが、その中でも先を見つける方向に我々を促すと考えている

ヘーゲルは言う

  時代の中にあってその実体を知ることは、時代を越え、その外に出ることになる

それを受けて田中はこう解説する

  時代の実体を知ることは、その実質には何も加えない
  しかし、知ることにより時代の実体に含まれていなかった新しいものを加えたことになる
  つまり、それによって哲学は時代を越え、その外に出ているのである

その具体例として、ヘーゲルはギリシア哲学がキリスト教に引き継がれたことを挙げている
ギリシア哲学の中に含まれていた可能性が後に現実になったと捉えている
その場合、哲学がアプリオリに何かを提示できることを意味している

田中は言う

  時代を越えて新しい可能性をひらくことは、時代に徹し、時代の終結となることで可能になる

歴史の完結については、議論が多い
田中が厳しく批判するエンゲルスは、歴史は完全な国家という形では終わらないと言った
プラトンは、理想国家は地上に見られず、天上に存在するだけなのかもしれないと言った
ヘーゲルは、現実には存在しない理想に向けての無限の接近という考えには組しなかった

歴史における完結は、歴史の中のすべて(=国家・社会)が完成するということである
それは天国が地上に実現するということで、神は無用となる
神の国は地上にはないからである
ヘーゲルが無神論者だと非難された理由である

逆の言い方をすれば、理想や絶対的なものは歴史や現実の中には存在しないことになる
現実に存在しないからと言って、絶対的なものが存在しないという根拠にはならないのである
そもそも別のところにあるからだ

そうだとすれば、と田中は問う
常に理想に近づくための運動であり、準備段階にしかいない我々の生に満足できるだろうか
寧ろ、不確実な未来に縛られた生き方を止めなければならないのではないか
もし現在の時代で完結を願うのだとすれば、現代のうちに理想を求めればよいのである

ヘーゲルはこう言った

 理性的なものは現実的なもので、現実的なものは理性的なものである

我々の経験は現在において完結しているので、それを理解することが哲学の仕事になるだろう
ただ、絶対的なものも自然も歴史化されない
従って、現代の理解は進めるが、現代に囚われるのを戒めなければならないと田中は言う
時事問題が哲学の試金石などというデマに惑わされる必要はないのである

最後に「現代哲学」と「現代の哲学」との違いを指摘している
現代哲学とは、現代に見られる現象、一つの流行としてものである
それは、マルクス主義であり、実存主義であり、分析哲学などである
現代を理解するための一つのやり方であり、適切なもの、有効なものである保証はない
そのような中に入って考えることは、実は考えていることにならない
それは、ジェルファニョンが言っていた「考え方を知っている思想家」になることだろう

それでは「現代の哲学」とは何を言うのだろうか
それは、現代が対象として先にあり、諸々の哲学を利用して理解するものになるのだろうか
現代を理解するためにイズムの奴隷になるのではなく、主人になるような哲学とも言えるだろうか







2019年10月21日月曜日

哲学と文学の違いとは




田中美知太郎の『人間であること』所収の「哲学の文章について」を読む
プラトンの『パイドロス』を引き、作家と哲学者の違いを紹介している
興味深いことがあるので書き留めておきたい

哲学者は自分の思想を表現するための最善のスタイルを求めなければならない
哲学書は国民文学として広く読まれるようなものでなければならない
デカルト、バークリー、ヒューム、ライプニッツなどがそうであったように

日本では、明治初年から20年代までイギリス、フランスの流れでエッセイ風だった
明治憲法発布以降はドイツの影響で、講義をそのまま文章にしたようなものが中心となった
田中は、表現の選択の幅が狭いと見ている

文学は書かれたものがすべてで、ある意味その人間はどんな人間であってもよい
それに対して哲学は、書いたものについての批判が出ればそれに応え説明しなければならない
つまり、書いたものがすべてではなく、それから先も続くものだという
あるいは、書くということは哲学者にとって次善のものかも知れない
ソクラテスは何も書き残していないのである

プラトンによれば、哲学者は作家よりも深い知(真善美に関する)を持っていなければならない
それがなければ哲学者とは言えない
そのような知を具えた上で語り書く人間が哲学者ということになるのか


「科学と技術」についての文章もあったが、こちらからは余り得ることがなかった
他のものはまだなので、何か出てくれば書くことがあるかも知れない







2019年10月19日土曜日

雨の札幌での語らい



本日は旭川時代にお世話になった片桐、西川、長谷川先生との会食が札幌であった
わたしがやっているサイファイ・カフェSHE札幌にはほぼ毎回参加していただいている
都合が付かなかった西川先生を除いてということになるが、次回はどうなるだろうか
そのカフェが今秋なくなったこともこのような機会を持つことになった理由かもしれない

いろいろな話題が出たが、特に印象に残ったのは、最近の医学教育の現場の問題だろうか
教育の目的は、有能な医者を育てることで、それ以外ではないという印象であった
そう考えると当然のことになるのか、職業教育の色合いが非常に濃くなっている
カリキュラムの締め付けが厳しくなり、他のことを考える余裕が持てないのではないだろうか
特に医学はそれ以外の要素が重要になる職業ではないかと思うのだが、、

わたしの方は持論の意識の三層構造理論について解説、よく理解されたと思う
しかし、現場の人から見ると現状を変えることは至難の業のようだ
世の中の多くの人が二層止まりでよいと考えているか、三層の存在を意識していない可能性が高い
そもそも現在の方針を出している側も同様の認識しかないと思われることが問題の根の深さだろう

今日は二次会もあり、さらに論を進めることになった
仕事を終えた後の生き方、あるいは論文を書くということについても持論を展開した
時間を忘れる語らいとなった
お忙しいところ、遠くから足を延ばしていただいた皆様に改めて感謝したい

又このような場を持つことができれば幸いである






2019年10月17日木曜日

古代人として生きる



このところ、午前中はゆっくり、ぼんやり、時にシガーの紫煙を眺めながら過ごしている
日の光を浴びてそうしていると、こころからの至福を感じる
わたしが言うところの瞑想の時である
そういう無為の時間を至福と感じることができるようになったことが幸せなのかもしれない

プロジェに当たる時は、「決してこころを強いない」ということが大原則になっている
必要のないストレスをかけないということである
アタラクシアを求めているのだろうか
ぼんやりしていているとその気になってくる時が来るが、その時まで待つのである

所謂仕事をしているとそうはいかない
そこから解放されなければ到達できない境地になるだろう
すでに老境に入っているのだろうか
あるいは、古代人として生きているのだろうか






2019年10月13日日曜日

台風が齎してくれた青春



台風のため予定を変更せざるを得なくなり、週末を東京で過ごす
今日は台風一過の快晴で気持ちよい
午後から街に出て書店に遊ぶ

当たり前ではあるが、目に付く本がフランスにいる時と違うのが楽しみになっている
今日は最初の学生時代以来の名前が目に入り、何冊か手に入れた
亀井勝一郎、三木清、田中美知太郎、T・S・エリオット

この中では亀井勝一郎が一番懐かしいかもしれない
手に取ったのは『青春論
他の人はこれまでにも目に触れたことがあったが、この人は初めてではなかっただろうか
この手の本は20歳を境に手にしたことがないはずである

台風が齎してくれた贈り物とでも言うべきだろうか




2019年10月11日金曜日

台風前夜の豊かな語らい



本日は順天堂の奥村、垣生、葛西先生との会食があった
普段からあまり勉強していない身にとって、現場からの情報は大いに参考になる
中には自分でも考えてみたいと思わせるものもあり、人と会うことの大切さを痛感した

幅広い交際範囲を誇る奥村先生は情報の宝庫で、今回も思いもかけぬ話を聞くことができた
この世はそう動いているのかと感じることが少なくなかった
現世の只中に生きておられる諸先生からのお話は馴染みがないのでいつも新鮮である

本日は台風前夜の貴重なお時間を割いていただいた
また、小生に対する励ましも含めて感謝に堪えない
これからもいろいろなお話を伺うことができれば幸いである





2019年10月10日木曜日

哲学者ミシェル・セール、あるいは「橋を架ける」ということ



新しいエッセイが雑誌「医学のあゆみ」に掲載されました
エッセイ・シリーズ「パリから見えるこの世界」の第84回
哲学者ミシェル・セール、あるいは「橋を架ける」ということ
医学のあゆみ(201910.12)271 (2): 226-230, 2019

今のところ私の哲学者ではありませんが、その哲学観には共感するところがあります
お目通しいただければ幸いです






2019年10月9日水曜日

東京理科大での講義を終える



このところ例年の行事になっている東京理科大マスターコース「生命倫理」の講義を終えた
いつものように、その時が来るまで準備が終わらず、困ったものである
そうは言うものの、もう諦めていて精神的な乱れは全く感じなくなって久しい
最後に如何なる苦境が待っていようとも、平静に受け止め処することができるようになったからだ
これはどのようなプロジェにも応用でき、今ではわたしにとっての強力な武器になっている

この講義では小テストが義務付けられており、今日発見したことについて書いてもらった
車内でその回答を読みながら帰ってきた
これから研究者や職業人として旅立つ若者なのでわたしの意識とは異なっている
しかし、思考の重要性と思考の異なるやり方には気付いてくれたようで、講義には意味があった

どこに意識を持つのか、どのように「もの・こと」を考えるのかが文化的な質を決めると考えている
殆どの人が向けていると想像される身近な現実を超えて考える精神的な余裕と暇が求められる
まず、そのことに気付くことが重要になるが、その切っ掛けは伝わったように見える
これからの研鑽を期待したい

それはそのままわたし自身に対する言葉でもあるのだが、、






2019年10月7日月曜日

「パリから見えるこの世界」2017 のご紹介



雑誌「医学のあゆみ」に連載中のエッセイ「パリから見えるこの世界」の2017年分をアップしました
それ以前のものもサイファイ研究所ISHEのサイトに掲載されています
お暇の折にでもお目通しいただければ幸いです


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(52) 文化としての科学、あるいは「科学の形而上学化」の実践
医学のあゆみ (2017.1.14) 260 (2): 187-191, 2017

(53) トルストイの生命論、科学批判、人生観、そしてメチニコフ再び
医学のあゆみ (2017.2.11) 260 (6): 550-554, 2017

(54) 植物という存在、あるいは観るということ
医学のあゆみ (2017.3.11) 260 (10): 934-938, 2017

(55) オーガニズム、あるいは「あなたの見方を変えなければなりません」
医学のあゆみ (2017.4.8) 261 (2): 204-208, 2017

(56) 「自己の中の他者」、あるいは自由人葛飾北斎とルネサンスマン平田篤胤
医学のあゆみ (2017.5.13) 261 (7): 778-782, 2017

(57) 現代フランスにおける「生の哲学」、そして哲学すべき状況とは?
医学のあゆみ (2017.6.10) 261 (11): 1123-1127, 2017

(58) 文明と文化、そしてそこから見える科学
医学のあゆみ (2017.7.8) 262 (2): 190-194, 2017

(59) エピクテトスとマルクス・アウレリウス、そして現代に生きるストア哲学
医学のあゆみ (2017.8.19) 262 (7, 8): 750-754, 2017

(60) 瞑想とフランス生活、そしてその効果を想像する
 医学のあゆみ (2017.9.9) 262 (11): 1061-1065, 2017

(61) マルセル・コンシュ、あるいは哲学者の生活
医学のあゆみ (2017.10.14) 263(2): 211-215, 2017

(62) 絶対的真理への道、その第一歩はあらゆる生の経験を意識することか
医学のあゆみ (2017.11.11) 263 (6): 551-555, 2017

(63) エルンスト・ヘッケル、あるいは一元論的知、倫理、美の探究
医学のあゆみ (2017.12.9)263 (10): 886-890, 2017