2019年12月14日土曜日

人間ワレリー・アファナシエフを観る



昨夜、こんな低いところに、こんな大きな満月が!と驚いた
しかし、その大きさも卵の黄身のような黄色も再現できていない
月を撮ろうと思う時、いつもわたしのカメラに感じるフラストレーションである


昨日の朝、NHK-BSでロシアのピアニスト、ワレリー・アファナシエフ(1947-)の特集があった
冒頭は見逃したが、大半を観ることができた
もう10年以上前になるが、ピアノに留まらない芸術活動に関わっている人として知った
当時はピアノの演奏を聴いた程度だったが、この特集ではいろいろな側面を見ることができた

この芸術家を支えているのは、詩的な感性と哲学的な思考だろうか
音楽の中のことだけではなく、音楽という人間の活動について考えている
この二つの対比は非常に重要で、多くの場合、後者が欠けているのだ
そして、自然を含めた外界に対する鋭い観察眼だろう

印象に残る言葉が次々と出てきたが、例えばこんな具合である

ロシアにいる時には自由はなかったが、西側に出れば手に入ると思っていた
しかし、そうではなかった
商業主義が支配していたのである
そこで重視されるのは芸術ではなく、売るための話題性である

現代は本物の芸術、天才を必要としていない
普通の人よりちょっとだけ優れた人を売り出し、それを次々に消費していけばよいのである
現代に真の芸術を生み出す力はないとも言っていた
先日の丸山健二さんも、同様のことが芥川賞などで行われていると語っていた

アファナシエフさんは、現代人が重んじるのは事実であって、精神ではないと言っていた
これは科学時代の現代の本質を突いた言葉である
科学は精神を拒否して事実に拘るので、現代の重い症状は必然なのである

彼は若い時、友人から能の音楽を紹介され、感銘を受けたという
そこに懐かしさも感じたようだ
また、日本の古典文学にも共感
例えば、源氏物語や吉田兼好のように世俗を離れて自由を得た文人の作品などに

さらに、日本の自然(京都嵐山の映像があった)にも感じるところがあったようだ
しかし、そこに留まりたいとは思わないとのこと
なぜなら、そこで感じたものは自分の中に常にあるものだから

あることの本質的なものを掴んでしまうと、それが存在するかしないかはそれほど重要でなくなる
その存在は本質として自分の中に常にあるからだ
そういう感覚はわたしの中にもある

芸術は過去への回帰がなければ駄目だとも言っていた
過去の参照、追憶、、
ブラームスは追憶ほど大切な感情はないと言ったと彼は指摘していた
これはフランスで生活するようになってからのわたしの感覚に近いものがある

モスクワ音楽院のレッスンで、学生に話していたこと
目の前に広い空間を意識し、そこから音が生まれ出る様を表現するようなイメージで
これは言葉についても当て嵌まりそうなイメージである
さらに言えば、生きるということに関しても

その他、静寂を聞くとか、時の流れは見ることはできないが、聞くことはできるという言葉もあった
そして、「絶対的真理」という言葉を耳にした時、この人の知的姿勢が見えたような気がした
孤独の中で、一体何に耳を傾けてきたのだろうか


番組は10年ほど前のもので、当時はベルサイユに居を構えていた
現在は72歳でベルギーに移り住んでいるとのこと

濃厚な時間を味わった





0 件のコメント:

コメントを投稿