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2022年12月17日土曜日

コリングウッドによる自然(65): 現代の自然観(7)ベルクソン(4)



















ベルクソン(1859-1941)の生気論に関わるこのような不均衡と矛盾の感覚があるので、我々は彼の基本的な概念を詳しく調べなければならない

自然の有機体と自然の法則の両方を創造する働きをし、直観的に知識を求めると同時に知的に行動する精神を有機体に付与する生命力は、その外にもそれ以前にも何もない力である

しかしそれは、いろいろなやり方でそれ自身を分化させ組織化する

異なる方向に分枝、発展し、この方向では成功し、別の方法では失敗する

ここでは停滞に陥り、あそこでは中断されない勢いで流れていくと言った具合である

つまり、この活動の詳細な記述を通して、彼はこの活動を恰も岩や山の間を流れる川として捉え、岩や山は川の運動自体を決定しないが、分枝や多様化は決定していると考えていた

これは、閉塞や分枝の原因は生命力そのものに内在するのか、この原因は生命ではない何かなのかのどちらかを意味している

最初の選択肢は、ベルクソンの純粋な活動としての生命という概念によって除外される

それゆえ、第二の選択肢のそれ自身で実在する何か、生命の流れの障害としての原因を考えなければならなくなる

ここで再び、生命が役割を演じる舞台としての物質という観念に戻ってくる

これはベルクソンの宇宙論の悪循環である

彼は表面上、生命の副産物として物質を見做していたが、物質を前提とすることなくどのようにして副産物が現れるのか説明できなかったのである


この結論は、ベルクソンの認識論にとって致命的である

宇宙論として見たベルクソン哲学の問題は、彼が生命を真剣に考えたことではなく、それ以外を真剣に考えなかったことである

生命という概念は、世界の一般的な性質にとって最も重要なカギになる一つであるが、全体としての世界の十分な定義にはならない

物理学者の無生物の世界は、ベルクソンの形而上学にとって重荷である

それに対して、彼の生命プロセスの中で消化する以外に彼にできることは何もないからである

そして、それは消化し得ないものであることが明らかになったのである

しかし、彼が生命に注意を集中することにより成し遂げた自然理論の進展は否定できない

我々はベルクソンの仕事を無視することはできない

我々がやるべきことは、彼が解決できなかった生命のない物質という概念について再考することである







2022年12月16日金曜日

コリングウッドによる自然(64): 現代の自然観(6)ベルクソン(3)
































ベルクソン(1859-1941)の自然理論の長所は、彼が生命の構想に真剣だということである

彼はその概念をしっかりと把握し、それを印象的で見事なやり方で定義しただけではなく、それ自身の範囲において最終的なものとしたことである

しかし、彼の哲学を全体として見、彼がどのようにして生命の概念を自然の概念と同一視し、自然の中のすべてを「生命」という一つの言葉に還元しようとしたのかを想像する時、17世紀、18世紀の唯物論者たちが物質についてやったことを彼は生命についてやったことが分かる

唯物論者は物理学を出発点として、物理学者が理解する言葉の意味において、自然はいずれにせよ物質的なものであると言い張った

そして、自然の全世界を物質の言葉に還元するところに進んだのである

ベルクソンは生物学を出発点として、自然の全世界を生命の言葉に還元することにより議論を終えるのである

我々はこの還元を唯物論が試みた還元よりも成功しているのかどうかを問わなければならない

ここで2つの問題が現れる

1つは、精神が物質の概念に吸収されることに抗したように、生命の概念に吸収されることに執拗に抵抗するものがあるか

そして2つ目は、生命という概念が足場を失ってもそれ自身で宇宙的原理として有効であるかという問いである

第一の問いは、ベルクソン流の生気論が古い唯物論よりも自信をもって対応できるものである

物質と精神の溝を橋渡しする生命という概念は、両者を説明すると尤もらしく主張できるだろう

従って、この問題に長居はしない

第二の問題はより深刻である

我々が知る生命は、物質により既に設定された舞台の上でその役を演じている

我々が見るところ、それは無数の無機物の中の一つの表面で一時的に開花したものである

天文学や物理学の無機的世界は、有機的世界とは比較にならないほどの時間と空間を伴うシステムである

生命がこの無機的世界に現れているという事実は、疑いなく無機的世界の重要性に光を投げかけている

ベルクソンの雄弁から我々の精神を救い出し、彼が言うように物質は生命の副産物なのか、あるいは唯物論者が信じるように生命は物質の副産物なのかを頭を冷やして自問する時、彼が擁護している立場はとんでもなく耐えがたい矛盾であることを認めないわけにはいかない

自然は我々の精神の思考の副産物であるとするカント(1724-1804)の理論を、その反対が真理に近いと確信しているため、真剣には受け入れられないとすれば、どうしてベルクソンの同様の理論、すなわち物理学の世界は生命の自己創造的世界の副産物であるということを受け入れることができるだろうか

これは新しい形の主観的観念論で、ヒューム(1711-1776)がバークリー(1685-1753)の理論について言ったこと、すなわち、その議論は回答の余地はないかもしれないが、確信を齎すものでもないと言わなければならない












2022年12月15日木曜日

コリングウッドによる自然(63): 現代の自然観(5)ベルクソン(2)





これら3つの二元論はそれぞれが万華鏡のようにベルクソン(1859-1941)の哲学になるが、我々の議論のために重要になるのは、物質と生命という宇宙論的二元論である

すでに見たように、生命とはまず何よりも人間の精神を生み出す力であり過程である

それに対する物質とは、それを操作するために精神が現実を考える1つのやり方であるが、この現実は生命そのものである

生命と物質はいかなる意味においても対峙するものなので、生命は物質ではあり得ない

つまり、物質は行動のために有用で必要な知性の産物であり、真なるものではない

従って、物質はベルクソンの宇宙論からは排除され、生命の過程とその産物だけから成る世界が残されたのである

この過程が「創造的進化」とされるものである

作用因なるものは、物質の架空の世界に属するとされて、この過程から追放される

作用因に従って動くものは、単に引っ張られたり押されたりしているだけだが、生命はそこに内在する「エラン・ヴィタル」に従い、それ自身で動くのである

同時に目的因も追放される

なぜなら、目的因の場合、終わりが前もって決められており、その過程の創造性や自発性が否定されるからである

ベルクソンは目的論を逆さまになったメカニズムだと言った

世界の過程は、壮大な即興演奏である

生命の力は、いかなる目的もゴールもその外の導きの光も内なる導きの原理もない

それは、内在する性質が流れることであり、どんな方向にもいつまでも推し進める単なる力である

物質的なものはこの宇宙的な運動の前提ではなく、その産物である

自然の法則はその過程を導く法則ではなく、一時的に採用する輪郭に過ぎない

延長から成る感覚器により感受可能な(perceptible)世界と、その振舞を支配している変わることのない理解可能(intelligible)な法則という古い区別

つまり、古代ギリシアの感受可能な世界と精神による理解が可能な世界との区別が、両者とも進化という過程に組み込まれることにより否定されたのである

進化の過程は、変化するものと、その変化のやはり変化する法則を一度に生み出すのである






2022年12月14日水曜日

コリングウッドによる自然(62): 現代の自然観(4)ベルクソン(1)

































進化の観念が本質的に生物学的なものとして考え出された思考のフェーズは、ベルクソン(1859-1941)の仕事の到達点と見てもよいかもしれない

わたしはここで仕事全体を検討しようとしているのではなく、彼の哲学の生物学的要素の主要な輪郭と他の要素との関連を指摘するだけである

ベルクソンの生命についての思想は、物理学者が理解する物質との相違をしっかり把握することから始まる

物理学者の世界では、起こるすべてのことは既に存在している原因の結果にしか過ぎない

物質とエネルギーは不変なもので、すべての運動はすでに決定され、理論的に計算可能である

すなわち、真に新しいものは存在し得ない

全ての未来の出来事は過去の出来事の中にある

ベルクソンの言葉で言えば « Tout est donné »(すべては与えられている)で、未来の扉は閉じられているのである


反対に生命においては、未来の扉は開け放たれ、変化の過程は創造的で、真に新しいものが現れる

ここに一見すると、「物質」と「生命」という自然における二元論がある

二元論にどう対処するのか

ベルクソンは、それに対して認識論でアプローチする

そこでも彼は「知性」と「直観」という二元論を見出す

知性とは、理性を働かせ、立証し、厳密な概念と共に働き、物質を思い描くための適切な道具である

また直観とは、対象の生命の中に入り込み、運動の中に生命を追跡し、流動的で自己創造的な生命の世界を認識するための適切な道具である

物質と生命に次ぐ、知性と直観という第二の二元論だが、ベルクソンは次のように主張して解決しようとする

人間の精神は自然の進化の産物なので、真理を知るために我々に精神的な能力を自然が与えたと想定する必要がない

実際、知性とは真理を知るための能力などではなく、実践的な能力、自然の流れの中で我々を効果的に行動させる能力、丁度肉屋が動物の肉をさばいたり、建具屋が木材を処理したりするようなものである

ここでベルクソンは、「知識」と「行動」という第三の二元論に頼るのである

すなわち、本質的に直観的なものとされ、生きた対象に自らを浸している意識の働きである「知識」と、操作的なものとされ、対象から離れ、見下ろしている意識の働きである「行動」という二元論である








2022年12月13日火曜日

コリングウッドによる自然(61): 現代の自然観(3)生命という概念(3)

































物質とも精神とも違うものとしての生命という概念が確立されるまでに抵抗がなかったわけではない

それは当然のことだが、デカルト(1596-1650)の実体二元論の遺産から来ている

生命は伝統的に物質の領域に組み込まれているので、生物学的事実を物理学の概念で説明しようという衝動に駆られる

この敵の牙城は、以下のような理論であった

特異的な形の変異は、受精卵において父親と母親の細胞が混ぜ合わせられるという全くの偶然により、あるものはその環境で生きることができるが、他のものはそうはいかないという具合に、いろいろな種類の子孫を生み出す

この理論に基づき、唯物論的遺伝学の立派な構造が生まれたのである

わたしが唯物論的というのは、それが生理的機能をすべて物理化学的構造として説明しようとしているからである

未だ活発なその論争に、今は入ることはできない

なぜなら、この論争は生物学の領域に属するもので、わたしが論じている哲学的問題に影響を及ぼすのは、その論争から離れた含意だけだからである

哲学に基づけば、機械的あるいは化学的とは異なるものとしての生命の過程という概念は定着するところまで来ており、我々の自然の概念に大変革を齎したと言うのは、正当であるとわたしは考えている

多くの著名な生物学者が未だそれを受容していないということは、驚くに当たらない

同様に、16世紀宇宙論の新しい豊穣の要素としてわたしが記載した反アリストテレス物理学は、同時代の著名な科学者により拒絶された

役に立たない衒学者だけではなく、知の向上に重要な寄与をしたような人たちにも受け入れられなかったのである









2022年12月12日月曜日

コリングウッドによる自然(60): 現代の自然観(2)生命という概念(2)
































これらの思索は、全く新しい生成過程の概念に導いた

それまで自然は固定された生命の形を再現するとされていたのに対し、これからは常に新しく改良された形を産生しようとするものと見做されたのである

それは人間の養牛業者のようなものだが、彼らにとっての改良された形とは彼らの目的に沿うもので、牛の利益にかなうとは限らない

つまり、養牛業者の目的が牛に押し付けられるのである

自然が生命の形を改良する場合、自然はその内側から作用する

従って、自然が改良された生命の形を再現するという意味は、生きること、生存に適している形のことである

生命の歴史とは、自然が生命をより効果的に生きるようにする実験の終わりなき繰り返しと考えられる

このような生命の概念は、すでに浸透していた物質と精神の概念と区別することが非常に難しかった

新しい生物学は生命を物質と似ているもの、意識的な目的を完全に欠いたという意味で精神とは似ていないものとして考えた

ダーウィン1809-1882)は選択という言葉や有機的な自然における目的論を含意する言葉を使うことに躊躇しなかったが、自然を意図的に実験したり目的を意識するものとしては一度も考えなかった

彼の生物学の底にある哲学を考え出そうとしたならば、ショーペンハウアー(1788-1860)の意識や道徳的属性を全く欠いた、創造的で指導的な力である盲目の意志の自己表現としての進化というような概念に至っただろう

そのような考えは、ダーウィンの同時代人――例えば、テニスン(1809-1892)――の空気の中に漂っていた

他方、生命は歴史的過程の中で発展し、ランダムではなく一つの決められた方向に向かうという意味で、物質ではなく精神のようなものであるとも考えられた

もし環境が変化したとする

例えば、魚がいる海が徐々に蒸発していく場合、魚はまず泥の中で、そして乾燥した陸地で生息できるように代々適応する術を見つけるだろう

それが安定して来れば、より適応できないものを圧倒していくだろう

この理論は、内在的であり超越的でもある生命力という哲学的概念を含意している

内在的という意味は、これらの有機体の中に具現化されたものとしてだけ存在するからである

そして超越的という意味は、その個体とそれが属する型の生存や永続を実現しようとしているだけではなく、新しい型の中により適した実現を常に試み、それが可能であるからである







2022年12月10日土曜日

コリングウッドによる自然(59): 現代の自然観(1)生命という概念(1)
































今回から、いよいよ現代の自然観に入る

最初のテーマは生命という概念で、まず進化生物学が論じられる

気分も新たに早速始めたい



ヘーゲル1770-1831)の時代から進化という概念は二つのフェーズを通り過ぎた

一つは生物学的フェーズで、二つ目が宇宙論的フェーズである

生物学的フェーズは、自然の一般理論との関連で極めて重要である

なぜなら、デカルト1596-1650)の物質と精神の二元論をその間に生命という第三項を入れることにより最終的に解体したのがこの思想の運動だったからである

19世紀の科学研究は、物質の科学である物理学と精神の科学から独立した生物学研究の自律性を確立することに向けられた

古代や中世の宇宙論では、物質、生命、精神は融合しており、識別するのが難しかった

延長としての世界は物質的なものと見做され、動くものは生きているものとして、秩序だったものは知的なものとして見られた

16世紀と17世紀の思想は魂を世界から追い出し、死んでいる物質の秩序だった運動を考えることにより近代物理学を作り出した

そこには生きたものの運動との対比が暗黙の了解としてはあったのだが、近代の生物学はまだ生まれておらず、デカルトも動物を自動機械として考えようとしていた

ヘーゲルでさえ、自身の宇宙論を自然の理論と精神の理論に分け、生物学はまだ独自の領域にはなっていなかったのである


19世紀の生物学が勃興する前、生物における生成の過程は、親の特徴的な形が子供に再現されることであると考えられていた

それが正確に行われなかった時には逸脱や失敗と見做されたのである

当時、生物は安定しており、異常が出現しても生き延びられないか、子供を作ることができないと思われていた

しかし、18世紀の古生物学者の研究によれば、この見方は最早有効ではないことが示されていた

実際に地質学の研究が、昔の動物相、植物相と今のものが大きく異なっていることを明らかにすることになる

つまり、歴史が流れると、生物の形は変化すると考えざるを得なくなる

人類の歴史を顧みても、政治的、社会的組織は同様の進化を経ていることが分かる

この仮説は、主にダーウィン(1809-1882)による家畜の交配研究により実証された