ベルクソン(1859-1941)の自然理論の長所は、彼が生命の構想に真剣だということである
彼はその概念をしっかりと把握し、それを印象的で見事なやり方で定義しただけではなく、それ自身の範囲において最終的なものとしたことである
しかし、彼の哲学を全体として見、彼がどのようにして生命の概念を自然の概念と同一視し、自然の中のすべてを「生命」という一つの言葉に還元しようとしたのかを想像する時、17世紀、18世紀の唯物論者たちが物質についてやったことを彼は生命についてやったことが分かる
唯物論者は物理学を出発点として、物理学者が理解する言葉の意味において、自然はいずれにせよ物質的なものであると言い張った
そして、自然の全世界を物質の言葉に還元するところに進んだのである
ベルクソンは生物学を出発点として、自然の全世界を生命の言葉に還元することにより議論を終えるのである
我々はこの還元を唯物論が試みた還元よりも成功しているのかどうかを問わなければならない
ここで2つの問題が現れる
1つは、精神が物質の概念に吸収されることに抗したように、生命の概念に吸収されることに執拗に抵抗するものがあるか
そして2つ目は、生命という概念が足場を失ってもそれ自身で宇宙的原理として有効であるかという問いである
第一の問いは、ベルクソン流の生気論が古い唯物論よりも自信をもって対応できるものである
物質と精神の溝を橋渡しする生命という概念は、両者を説明すると尤もらしく主張できるだろう
従って、この問題に長居はしない
第二の問題はより深刻である
我々が知る生命は、物質により既に設定された舞台の上でその役を演じている
我々が見るところ、それは無数の無機物の中の一つの表面で一時的に開花したものである
天文学や物理学の無機的世界は、有機的世界とは比較にならないほどの時間と空間を伴うシステムである
生命がこの無機的世界に現れているという事実は、疑いなく無機的世界の重要性に光を投げかけている
ベルクソンの雄弁から我々の精神を救い出し、彼が言うように物質は生命の副産物なのか、あるいは唯物論者が信じるように生命は物質の副産物なのかを頭を冷やして自問する時、彼が擁護している立場はとんでもなく耐えがたい矛盾であることを認めないわけにはいかない
自然は我々の精神の思考の副産物であるとするカント(1724-1804)の理論を、その反対が真理に近いと確信しているため、真剣には受け入れられないとすれば、どうしてベルクソンの同様の理論、すなわち物理学の世界は生命の自己創造的世界の副産物であるということを受け入れることができるだろうか
これは新しい形の主観的観念論で、ヒューム(1711-1776)がバークリー(1685-1753)の理論について言ったこと、すなわち、その議論は回答の余地はないかもしれないが、確信を齎すものでもないと言わなければならない
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