ヘーゲル(1770-1831)は、空虚な空間と時間を自然における基本的なものとするという点で、カント(1724-1804)とニュートン(1642-1727)、デカルト(1596-1650)とガリレオ(1564-1642)に続いた
ヘーゲルは、自然に浸透する運動を、プラトン(427 BC-347 BC)やアリストテレス(384 BC-322 BC)のやり方で、さらに基本的な何か――それは論理的な過程なのだが――を時間と空間に翻訳することであると理解した
しかし彼は、このように時空に広がる自然というものを真剣に捉えるとすれば、いかなる自然の事物や過程も時間と空間の中には居場所がないという結論に至ることも見ていた
従って、空間に存在し、時間の中で起こるという考え自体が自己矛盾する考えになるのである
この状況においてヘーゲルがすべきことは何なのか
ある哲学者は、自己矛盾するものを見つけた時には、それは見かけであり実体ではないと言い張る
しかし、ヘーゲルには逃避の方法がない
なぜなら、彼は知の理論において超実在論者であり、現れたものは何でも実体であると考えるのである
自然が確かに我々に現れる
我々の感覚に現れるように見えるが、カントが示したように、それは我々の感覚ではなく我々の想像の中に現れ、科学者の思考に理解可能な形で現れる
従って、それは実在するのである
しかしヘーゲルによれば、その中にある矛盾が、それは完璧ではないことを証明している
それは何か他のものに変化することに関わっている何かなのである
自然が向かう他のものとは、精神である
従って、ヘーゲルにとっての自然とは精神であると言えるだろう
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