2022年12月7日水曜日

コリングウッドによる自然(56): ヘーゲル(11)


































自然=精神だからといって、我々が自然を考える時に精神を思い描く必要はない

あるいは、自然は精神が存在しなければ存在できないようなものでもない

ただ、自然は真の過程の一つの相であり、それが精神の存在に導くということである

ヘーゲル1770-1831)にとっての自然は、バークリー1685-1753)やカント1724-1804)にとってと同様、一つの抽象であるが、それは真の抽象であり、精神による抽象ではない

真の抽象とわたしが言うのは、実在する過程の実在する一つの相のことで、それが導く次なる相のことではない

従って、葉芽の成長は実際に起こっている過程で、葉が完全に形成される前に起こることである

蕾と葉が別々にあることは精神が作り上げたフィクションではない

蕾は葉とは異なる特徴を持っているが、葉になるようにしており、それが蕾の本質である

つまり、蕾と葉は一つの過程の異なる相を形成している

自然による抽象は、連続する相を通して行われているのである

ヘーゲルにとって全体としての自然が精神を含意しているということは、丁度蕾が葉を含意していると言うのと同じである

自然はまずそれ自身でなければならない

従って、自然の概念は真であり、錯覚ではない

しかし、暫定的にそれ自身であるのであって、自然はそれ自身であることを止め、精神になる

丁度、蕾がそれ自身であることを止め、葉になるように

蕾の全過程における暫定的な性質は、論理的には自己矛盾になる

そう在ることと成ることとの間の矛盾である

この矛盾は植物学者の誤りではなく、実在に内在する特徴なのである










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