ヘーゲル(1770-1831)によれば、自然の観念はこのように分散し、時空間に分布する二重にばらばらにされた実体の観念である
この特徴は全体としての自然の観念だけではなく、自然の中のいかなるものの観念にも影響を与える
物質的な物体の観念は、空間に分布する多くの粒子の観念であり、生命の観念は時間の中に分布する多くの特徴の観念である
そのため、物体の観念が局所的にでも実現されたり、生命のすべての特徴が現実となる時はない
物体がここにあるとか、今この瞬間わたしは生きていると言うことができないのである
たとえ「ここ」を一立方フィートとし、「今」を80年だとしても、物体の存在がその領域に含まれ、80年の中にその有機体が存在しているとは言えない
このように考えると、ホワイトヘッド(1861-1947)が再発見し、我々の時代に広めた概念に辿り着く
それは、世界に存在するそれぞれの物質は、ここやあそこに局在しているのではなく、どこにでも存在するということである
この概念は現代物理学にとって驚くべきことではなく、現代の宇宙論についての注目すべき事実なのである
それは現代の物理科学が物質とエネルギーについての見方に辿り着いたもので、自然に関するヘーゲルの理論が意味するところと合致している
ホワイトヘッドのような哲学者であり科学者が、ヘーゲルの理論をそうとは知らずに(なぜなら彼がヘーゲルを読んだようには見えないないからである)復唱したのである
しかし、ホワイトヘッドに可能であったことはヘーゲルには不可能であった
従って、ヘーゲルの自然に関する理論は二元論によって引き裂かれ、結局はばらばらにされる
一方に、17世紀から受け継いだ自然は機械だとする前提がある
そして他方には、自然は単なる機械ではあり得ず、全ての実体には過程と活動が浸透していなければならないという彼自身の思想の宇宙論的な含意がある
なぜなら、自然にはそれ自身から論理的な必然性により、生命と精神を進化させる力が具わっているからである
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