2020年7月2日木曜日

フッサールの言葉から




雨の一日
今日の言葉はフッサールにしたい


  • 一九世紀の後半には、近代人の世界観全体が、もっぱら実証科学によって徹底的に規定され、また実証科学に負う「繁栄」によって徹底的に眩惑されていたが、その徹底性たるや、真の人間性にとって決定的な意味を持つ問題から無関心に眼をそらさせるほどのものであった。単なる事実学は、単なる事実人をしかつくらない。

  • ヨーロッパ的人間性は、よく知られているように、ルネサンスにおいて革命的な内的転換をとげる。それはいままでの中世的な存在様式に反抗し、それを無価値にして、新たに自己を自由に形成しようとするのである。そしてその驚嘆すべき模範を、古代の人間性にもとめ、古代人の(哲学的な)存在様式を自己の模範として模倣しようとする。

  •  現代の実証主義的な学の概念は、一つの残余概念だということになる。この概念は、時には狭く、時には広く解される形而上学の概念のうちにふくまれていたあらゆる問題――そこには「最高の究極的な問題」と曖昧に呼ばれているものもすべて含まれるのであるが――をとり落してしまったのである。

  •  形而上学の可能性に対する懐疑、すなわち新たな人間の指導者としての普遍的哲学への信頼の崩壊は、古代人がドクサに対立させたエピステーメーの意味に解される「理性」への信頼の崩壊を意味する。理性とは、存在すると思われているもののすべて、すべての事物、価値、目的に究極的に意味を与えるものである。

  • 哲学すなわち学問とは、人間性そのものに「生得的」で普遍的な理性が開示されていく歴史的運動だといってよいだろう。








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