2020年7月5日日曜日

大拙の言葉から




大拙の言葉から、いくつか


  • 雲水は何れも一面にあっては、自分のために他に対して出来得る限り面倒をかけざるように努め、他面にあっては、団体の一般的幸福のために極力尽瘁する。これを指して「功徳を積む」という。

  • 科学と科学的工作とは大いに人間の役に立った、併しながら我々の実際の精神的幸福に関する限りに於いては、我々は、我々の祖先が獲ていたそれよりもより以上に何等出ていない。事実我々は現在、世界中に亘って最悪の不安に悩まされている。そこで問題は、如何にして不思議(acintya)の見得に我々を再び立ち返らすかと云うことになる。これこそは疑いもなく、近代人を悩ます凡ての問題の中で最も重大な最も根本的な問題である。

  • 人間生活は、常に、経済的原理によって支配せられていはしない。そこにはより以上の何物かがある、このより以上の何物かが理解せらるる時にのみ、我々の求めつつある平和と幸福が得られる。我々の現代の生活は組織的にこの思想より立去らんとしつつあり、事実、故意にこの内面の声を沈黙させんとしつつあるは甚だ不幸なことである。

  • 仏教には、「六波羅蜜」と云って六つの徳目が菩薩行を構成するものと看做されている。・・・六つとは、一、布施、二、持戒、三、忍辱、四、精進、五、禅定、六、智慧である。この中で第三の「忍辱」が本章で云う「陰徳」に当たると見ることが出来よう。忍辱とは只々こらえるということでなく、自分という考え、即ち自己中心主義なるもの――これは何人でも無意識に持っているもので、仏教はこれを我執の一念と云う――、これを取り除き得た時、自然に動き出る志向と行動が、それなのである。

  • この布施行と云うのは、単に物を施すと云うことのみではない。功徳を施し、知識を施し、信仰を施すも亦布施である。身を殺して仁を為すのも亦布施である。観音菩薩は「施無畏」と云われる。無畏とは金剛不壊の信の義である。何れにしても六波羅蜜は大乗菩薩の生活そのものである。







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