ベルクソン(1859-1941)の生気論に関わるこのような不均衡と矛盾の感覚があるので、我々は彼の基本的な概念を詳しく調べなければならない
自然の有機体と自然の法則の両方を創造する働きをし、直観的に知識を求めると同時に知的に行動する精神を有機体に付与する生命力は、その外にもそれ以前にも何もない力である
しかしそれは、いろいろなやり方でそれ自身を分化させ組織化する
異なる方向に分枝、発展し、この方向では成功し、別の方法では失敗する
ここでは停滞に陥り、あそこでは中断されない勢いで流れていくと言った具合である
つまり、この活動の詳細な記述を通して、彼はこの活動を恰も岩や山の間を流れる川として捉え、岩や山は川の運動自体を決定しないが、分枝や多様化は決定していると考えていた
これは、閉塞や分枝の原因は生命力そのものに内在するのか、この原因は生命ではない何かなのかのどちらかを意味している
最初の選択肢は、ベルクソンの純粋な活動としての生命という概念によって除外される
それゆえ、第二の選択肢のそれ自身で実在する何か、生命の流れの障害としての原因を考えなければならなくなる
ここで再び、生命が役割を演じる舞台としての物質という観念に戻ってくる
これはベルクソンの宇宙論の悪循環である
彼は表面上、生命の副産物として物質を見做していたが、物質を前提とすることなくどのようにして副産物が現れるのか説明できなかったのである
この結論は、ベルクソンの認識論にとって致命的である
宇宙論として見たベルクソン哲学の問題は、彼が生命を真剣に考えたことではなく、それ以外を真剣に考えなかったことである
生命という概念は、世界の一般的な性質にとって最も重要なカギになる一つであるが、全体としての世界の十分な定義にはならない
物理学者の無生物の世界は、ベルクソンの形而上学にとって重荷である
それに対して、彼の生命プロセスの中で消化する以外に彼にできることは何もないからである
そして、それは消化し得ないものであることが明らかになったのである
しかし、彼が生命に注意を集中することにより成し遂げた自然理論の進展は否定できない
我々はベルクソンの仕事を無視することはできない
我々がやるべきことは、彼が解決できなかった生命のない物質という概念について再考することである
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