2019年11月15日金曜日

学友との恒例のデジュネ



本日はこのところ恒例となった学友とのデジュネがあった
お二方ともまだ仕事をされているようだが、そろそろ引き時が頭に浮かぶことがあるという
スポーツ選手などはその時期は早いが、人間である以上その時はいずれ誰にでも来る
難しい判断になるのだろうか
その割にはお元気そうであった

話題はいつものように何が出てくるのか分からない
最初は最近亡くなった後輩の話が出ていた
私と食事中に亡くなったという話を聞いたとのこと、人の噂は当てにならない
私は長いお付き合いだったので感慨深いものがある
周りに気を遣う人であった
私のエッセイは客観的に(第三者の作品として)読んでくれていたようで、コメントは参考になった
と同時に、元気を与えてくれるものが多かった

それから日本の古い美術の素晴らしさも話題に出ていた
私の方は、訪れたことのある古寺の仏像の印象などを語る程度
それとは別に、日本に帰ると観る番組として新日本紀行を挙げ、日本の古層にある風景に言及
都会にいると非現実に見えるかもしれないが、現実である

日本と言えば、最近の政治の体たらくは一体どこから来ているのだろうか
批判的な目を持つことだけがその機能のはずのマスコミが全く駄目になっているからか
昨日の丸山氏ではないが、それでなくても「もの・こと」をしっかり見ることが苦手な我々である
歯止めが利かなくなるのは当然の帰結か

その根には、考えなくなっている我々の日常があるのではないだろうか
数字がすべての基準として幅を利かすようになり、我々は考えなくなってきた
この傾向は新自由主義が入ってくる以前の20世紀中頃には明らかになっていた
実証主義的思考が優勢になってきたことと関係があるように見えるのだが、、
ハイデッガーではないが、計算的な思考には強くなったが、真の意味での思考ができなくなっている
考えることができる人間が増えなければ、根本的には変わらないような気がする
それとは別に、変わらなくてもよいという考え方も根強いように見える

冒頭の引退の話を突き詰めれば、人間としての引退もいずれ訪れる
それは突然のこともあるだろうし、だらだらと引きずることもあるかもしれない
いずれにしても先のことを心配しても始まらない
その厳然たる事実を認めた上で、日々励むしかないのだろう
あるいは、それを真に認識できれば、励まざるを得なくなるだろう
そんなところでお開きとなった







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