2018年3月30日金曜日
ハイデッガーの『存在と時間』7
今朝は久しぶりの快晴で気持ちがよかったが、午後から雨
そして、夕方には雨は上がり、比較的明るい夜となった
いつももの凄い音を発するお隣さんだが、トロンボーンの音源も同じところであることが判明
今朝は西城秀樹のYoung Man(YMCA)が流れてきて、一瞬オヤッと思う
すぐに、元々はアメリカの歌だったことを思い出す
さて、ハイデッガーに関するクリッチリー教授の考察も最後になった
最後は時間性が問題になるようだ
ハイデッガーが時間の議論で避けようとしたことについて、最初に述べたい
第一は、均一で線状で「今の点」が無限に続くようなものとしての時間を批判している
過去は最早今ではなく、未来はまだ今ではない、現在は未来から過去に流れているもの
アリストテレスに由来するこのようなモデルは、低俗でありふれた時間の概念である
第二は、時間と永遠の違いから始める時間の概念化を避けようとしている
その理解はアウグスティヌスが言ったように、高いところの永遠から時間性が生まれるとする
その永遠は神に通じるものである
ハイデッガーの時間性は、終わりに向けて常に走っているDaseinの実存に繋がるものである
時間の最初の現象は、死に向かう存在である私に現れる未来である
未来とそこに向かうということが結びつくのである
人間は現在に閉じ込められているのではなく、常に未来に投げ出されている
Daseinが未来に引き継ぐのは、存在論的な罪である
未来から現れるのは、わたしの個人的、文化的過去である
ハイデッガーが言うところのGewesenheit(having-been-ness)である
しかし、それは自分の過去に運命付けられていることではない
寧ろ、自由の中にいるという事実を引き継ぐ決意ができるのである
それを、固い決意をした状態、決然とした状態と言ったのである
ハイデッガーの現在は、今の点がどこまでも続くものではない
私がしっかりと掴むことができ、自分自身のものとすることができる何かである
未来を期待する中で開かれるものは、Gewesenheitを現在の活動の中に解き放つことである
それが彼の言うAugenblick(the moment of vision)である
この言葉はキェルケゴールやルターからの借用で、ギリシャ語のkairosの訳になる
kairosとは「適切な瞬間」を意味し、キリスト教ではキリストの出現と共に来る時間である
ハイデッガーの場合には、神との関わりなしに考えようとしている
その瞬間に現れるのが、真のDaseinである
彼の時間は、未来、過去、現在が統合されたものとして捉えられる
それは法悦であり、原初的なもので、死で終わる有限なものである
我々は時間である
時間性とは、統一体を作る三つの次元と共にある過程である
この書で彼がやろうとしたことは、有限な人間の動きを記載することであった
『存在と時間』は未完の書である
人間存在(Dasein)については解析できたように見える
しかし、より広く「存在そのもの」については手が付いていない 、ということなのだろうか
(了)
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