2022年10月16日日曜日

コリングウッドによる自然(23): アリストテレス(5)不動の動者の複数性





免疫学者のパリ心景』を読んだという方からコメントが送られてきた

そのポイントを以下に書き出してみたい

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定年後の第二の人生をいかに生きるかという大命題に真摯に立ち向かった経緯を知り、感嘆した

「すごい」と思ったのは、単身でパリに乗り込んで、修士から博士課程を修了して学位を取られたのちポスドクを経験されたこと

それから、その時その時に的確な指導者を見つけ出せたことで、運の強い人だと思った

大学卒業してすぐに哲学の世界に入ってもうまく行ったのではないか

今、第二の人生の前半を終了され、これからの後半をどのように考えて、何をされるのかという点に興味が湧いている

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わたしの歩みに感嘆されたとのことだが、わたしの中では最も自然なことだったので特別な感情は湧いてこない

ただ、この本が第二の人生の歩み方という視点から読まれる可能性があることが分かり、その点からは存在価値がありそうだ

一方、多面的に読むことができる本だとも思っているので、他の視点が指摘されることも願っている

また、最初から哲学に入っても問題なかったのではないかという指摘もあったが、これに関しては科学を終えたからでよかったと思っている

18歳くらいで哲学に入ってもエネルギーはあるが、考える材料も経験もないと思われるので、かえって大変だったのではないかと想像している

これはロッテルダム大学の哲学教授と話した時にも指摘されていたことである



この話題はこれくらいにして、コリングウッド(1889-1943)アリストテレス(1889-1943)に入ることにしたい

アリストテレスの神は、我々を愛するものではなく、我々が愛するものであった

それでは、神への愛によって作りだされた自然の過程は、どのように説明されるのであろうか

タレス(624 BC-546 BC)は、磁石も虫も水に過ぎないと言った

しかし、磁石がそのように行動し、虫がそのように行動するのはなぜなのかについては答えられなかった

アリストテレスが、すべてのものは神の生命を模倣しようとしていると言っても、多様な存在を説明しきれない

存在者には階層が存在し、それぞれの階層がそれ自身の目的を持っているとしか考えられない

そのためアリストテレスは、不動の動者の数は複数であるとしたのである

その一つは第一の動者=神である

その非物質的な動因の絶対的・自足的・自己依存的な活動(純粋な自己認識)は、物質的動因の活動(運動)によって模倣される

このように、第一の動者の魂は、神の愛によって発動され、可能な限り神の生命に似た方法で自身の物体を動かす


この活動は2つの方法で模倣される

1つは物体によって、もう1つは物質の中に具現しない精神あるいは叡智(ヌース)によってである

ギリシアにおける物体とは、魂を与えられた生きた物体で、努力とか欲望、愛によって発動させられる有機体のことである

神は自らを思惟・観想し、その他の叡智的存在者は神を思惟・観想する

つまり、その他の叡智的存在者は神的本性を分有するが、それは部分的であり、不完全な分有である

アリストテレスによれば、第一の動者の斉一な円環運動は、神の不動なる活動を再現する努力を表している

この円環運動は、神の活動を物体との関わりの中で直接模倣したものである

これに対して、惑星という叡智的存在者の思惟は、理性との関わりの中で神の活動を直接模したものである

叡智的存在者の完全な社会は、非物質的な永遠の手本から成り、宇宙的運動の複合態はそれを手本としている

これは『ティマイオス』をアリストテレス流に言い直したことになる

神は物質的・時間的世界を創造する際、永遠なる非物質的形相の世界を手本とした

重要なことは、自然界に存在する多様な活動の分化は、永遠なる実在の世界に存在し、論理的に先行する分化過程に依存するということである










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