2022年10月27日木曜日

コリングウッドによる自然(32): ルネサンス期の自然観(8)





























 Pierre Gassendi (1592-1655)




今日は、精神と物質、唯物論についての議論である

ガリレオ(1564-1642)と共に近代科学が成熟に達する

彼がやったことは、自然を科学の対象とするために、質的なものを排除し、諸量の複合体だけ制限することであった

ガリレオが考えた科学においては、計量的なものを除けば認識不能なものであった


ここまでを纏めると、第1に、自然は最早有機体ではなく、機械になり、自然の変化は目的因ではなく作用因によって生み出されている

つまり、努力とかまだ存在しないものに向けた傾向とかではなく、既存の物体の作用による運動に過ぎないのだ

第2に、質とか精神とかいうものは自然から排除されたので、どこか形而上学的理論の中に足場を見出さざるを得なくなった

ガリレオのこの見解は、デカルト(1596-1650)とロック(1632-1794)にも採用され、17世紀の正統となったのである

精神は自然の外に在り、質は精神に現れるものとされる

精神と物質の二実体説である

ただ、デカルトの場合、2つの実体は神と同一視した共通の源泉を持たねばならないことを主張

さらに「実体」は、それ自身以外のものを必要としない存在なので、神だけに適用される述語であり、神の創造物は神を必要としているので実体とは言えないのである


ルネサンスの汎神論的傾向は変化を遂げていた

自己創造的で自律的な自然という観念は、機械としての自然という観念と結びつき、唯物論的理論を生み出した

この流れの主唱者は、新エピクロス派のピエール・ガッサンディ(1592-1655)であった

ルネサンス汎神論を受け継いだ唯物論は、18世紀だけではなく19世紀においても生き続けた

そして、その唯物論は汎神論的刻印を残していた

唯一の実在である物質に対する態度が、宗教的だったのである

神を否定するが、それは神の属性を物質に移したからであった

唯物論者が物質的世界を語る時、キリスト教的敬虔な形式を用いるのであった

科学的に言えば、唯物論は達成よりも抱負であった

唯物論の神は、神秘的な流儀で奇蹟を行い、いつの日か自然の神秘を見破るであろう希望を抱いていた

実験の確証がないため、胆嚢が胆汁を分泌するように、脳が思想を分泌するというような言い方もしたのである










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