2022年9月15日木曜日

コリングウッドによる自然(12): ピタゴラス学派(5)

























ピタゴラス学派ソクラテス(c.470 BC-399 BC)の哲学における形相概念が内在性だったのに、プラトン(427 BC-347 BC)はなぜ反対の超越性に向かったのか

アリストテレス(384 BC-322 BC)の『形而上学』によれば、プラトンが若い時、ヘラクレイトス(c.540 BC-c.480 BC)の弟子クラテュロス(紀元前5世紀)の影響を受けた

ヘラクレイトスが言うように、この世界が万物流転で常に変わりゆくものだとすれば、あるものについて知ることはできないという懐疑主義に陥ったとされる

クラテュロスは、最終的に何も言わないという結論に達した

ソクラテスの哲学はその正反対で、クラテュロスが放棄したロゴスについての関心を明確にして強化した

ソクラテスの精神生活は精力的で、強靭な意志によって貫かれていた

しかしクラテュロスは、絶え間ない変化で溢れる感覚的世界に囚われ過ぎ、精神的自殺をしてしまったのである


そこからプラトンが得た教訓は、感覚的世界に囚われているかぎり、誰にでも同じことが起こるということであった

常に揺れ動く感覚的世界では、思想が落ち着く場がなく、定まったものがない以上、何ものも知り得ない

ソクラテスの倫理的探求の中で、例えば勇気について考える時、人間の中で起こる一時的な心理学的過程ではなく、勇気の理想状態、その人の前に据える鑑に関心を寄せたのである

ソクラテスは勇気の形相を独立して存在するものとせず、『パルメニデス』の中で主張したように内在説を採った

プラトンがなぜ内在説から超越説に移行したのか

コリングウッド(1889-1943)は、クラテュロスの遺産に対する自己防衛の必要を感じたためではないかと推論している

クラテュロスの考えをそのままにしておくと、例えば「勇気」というものはある瞬間には存在するかもしれないが、次の瞬間には変化し、無に帰している可能性がある

この事態をプラトンは避けなければならないと考え、超越性を強調することになったのではないか

コリングウッドはそう考えている


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この問題は実に根が深く、現代の根底に横たわっている

確かに、感覚的世界の中にいては、秒単位で移り変わる情報に流されるままである

そこでは、何も知ることができない

この状況は、わたしがフランスに渡る前に痛感していたことである

テレビや新聞の情報に当たるだけの生活の中で、不全感を抱えていたのである

何かを理解したという感覚が全くなかったからである

そこで日常の時間の流れを一旦止めることを思いついたのである

それを当時は「自分の頭の中を整理するため」と表現していた

流れの止まった落ち着きのある場から「もの・こと」を眺め、考えてみようということだった

15年に及ぶ天空での生活は、確かに「もの・こと」を見る時の固定された軸を提供してくれたように感じている

それは超越的生活が齎した超越的なものではなかったのだろうか

この視点から現実に目をやると、何ごとも理解することなく、流れているという印象が強い

無気力になり、そもそも「もの・こと」を理解しようとする意思さえも失っているように見える

残念ながら、その印象は強まるばかりである









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