この宇宙は、「理性」を通じて製作されたものと「必然」を通じて生じるものの混成体として生み出された
その際、「理性」が「必然」を説き伏せて、生成されるものが最善になるよう「必然」を指導する役割を演じたのである
そこで問題は、宇宙が生成される前には、火、水、空気、土の本性は何であり、どのような状態にあったのかである
それらを始原(アルケー)とか、それよりさらに遡った諸始原(アルカイ)と呼ぶのはよいが、それを明らかにするのは難しい
ここでは「ありそうな言論」に徹するしかないだろう
鷗外(1862-1922)で言えば、「かのように」か
これまでの万有についての議論では、2つのものを区別した
1)モデルとして仮定されたもの、理性の対象となるもの、常に同一性を保つもの
2)モデルの模写に当たるところのもの、生成するもの、可視的なもの
しかし、ここで第3のものを明らかにしなければならないだろう
それは、「あらゆる生成の養い親のような受容者」とでも言うべきものである
これはどういうことなのだろうか
次のように考えてみたい
まず、「水」と名付けているものは、凝固すれば石や土になり、溶解・分解すれば風や空気になり、空気が燃えると火になり、火は凝集して消えると空気に帰り、空気は濃密になると雲や霧になり、さらに圧縮されると流れる水が生じ、そこから石や土へというサイクルが始まる
このように変化の中にあるものについて、どれを一定のものだと言えるだろうか
今ここに現れている現象を、例えば火と呼ぶのではなく、その都度これこれであるもの、あるいはそのような特性を火と呼ぶことにするのである
これはすべての物体を受け入れるものについてもいえる
その物体はありとあらゆるものを受け入れながら、それらによって影響を受けることがないものである
そこを出入りするものは「常にあるもの」(理性対象)の模像で、写し取られたものである
当面、3つの種族を念頭に置かなければならない
1)生成するもの
2)生成するものが、それの中で生成するところのもの(受容者)
3)生成するものがそれに似せられて生じるそのもとのもの(モデル)
この中で、受容者はどんな形をも持たないものでなければ、あらゆる種類を受け入れることができない
ところで、「それ自体でそれぞれのものとして独立にある」というようなものは、存在するのだろうか
もし理性(真に知る思考)と正しい思惑(憶測でたまたま真実を射当てた場合の思惑)が種類を異にするとすれば、感覚では捉えられず、理性によってのみ把握される形相は、完全にそれ自体として独立に存在する
この点に関して、理性と思惑が当たっていることには違いがないとする人がいるが、それは違う
なぜなら、一方は真なる説明を伴っているが、他方は説明がない
また、理性に与るのは神と少数の人間に過ぎないが、他方は人間誰もがそれに与っているからである
ここで、次のものがあることに同意しなければならないだろう
第1に、同一性を保っている形相で、生滅することはなく、感覚されることもないもので、理性がその考察の対象としているもの
第2に、感覚され、生み出され、常に動き、ある場所に生じては滅び去るもので、思惑や感覚の助けを借りて捉えられるもの
そして第3に、いつも存在している「場」で、滅亡することなく、生成するすべてのものにその座を提供しているもの
その上で、真実とは次のことに他ならない
似像は、その拠って生じたところのもの(自身の成立条件・原理)が似像自身のものではなく、他者の影像として動いているので、他者の中に生じて、どうにか「ある」にしがみついているのが、似像に相応しい在り方である
真に在るものには、厳密な意味で真なる言論が味方について、あるものと他のものが別のものである限り、同じものが同時に1であり2であるということは決してないと主張する
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