2022年9月21日水曜日

プラトンの『ティマイオス』を読む(3)


























この宇宙は、「理性」を通じて製作されたものと「必然」を通じて生じるものの混成体として生み出された

その際、「理性」が「必然」を説き伏せて、生成されるものが最善になるよう「必然」を指導する役割を演じたのである

そこで問題は、宇宙が生成される前には、火、水、空気、土の本性は何であり、どのような状態にあったのかである

それらを始原(アルケー)とか、それよりさらに遡った諸始原(アルカイ)と呼ぶのはよいが、それを明らかにするのは難しい

ここでは「ありそうな言論」に徹するしかないだろう

鷗外(1862-1922)で言えば、「かのように」か


これまでの万有についての議論では、2つのものを区別した

1)モデルとして仮定されたもの、理性の対象となるもの、常に同一性を保つもの

2)モデルの模写に当たるところのもの、生成するもの、可視的なもの

しかし、ここで第3のものを明らかにしなければならないだろう

それは、「あらゆる生成の養い親のような受容者」とでも言うべきものである

これはどういうことなのだろうか


次のように考えてみたい

まず、「水」と名付けているものは、凝固すれば石や土になり、溶解・分解すれば風や空気になり、空気が燃えると火になり、火は凝集して消えると空気に帰り、空気は濃密になると雲や霧になり、さらに圧縮されると流れる水が生じ、そこから石や土へというサイクルが始まる

このように変化の中にあるものについて、どれを一定のものだと言えるだろうか

今ここに現れている現象を、例えば火と呼ぶのではなく、その都度これこれであるもの、あるいはそのような特性を火と呼ぶことにするのである

これはすべての物体を受け入れるものについてもいえる

その物体はありとあらゆるものを受け入れながら、それらによって影響を受けることがないものである

そこを出入りするものは「常にあるもの」(理性対象)の模像で、写し取られたものである


当面、3つの種族を念頭に置かなければならない

1)生成するもの

2)生成するものが、それの中で生成するところのもの(受容者)

3)生成するものがそれに似せられて生じるそのもとのもの(モデル)

この中で、受容者はどんな形をも持たないものでなければ、あらゆる種類を受け入れることができない

ところで、「それ自体でそれぞれのものとして独立にある」というようなものは、存在するのだろうか

もし理性(真に知る思考)と正しい思惑(憶測でたまたま真実を射当てた場合の思惑)が種類を異にするとすれば、感覚では捉えられず、理性によってのみ把握される形相は、完全にそれ自体として独立に存在する

この点に関して、理性と思惑が当たっていることには違いがないとする人がいるが、それは違う

なぜなら、一方は真なる説明を伴っているが、他方は説明がない

また、理性に与るのは神と少数の人間に過ぎないが、他方は人間誰もがそれに与っているからである


ここで、次のものがあることに同意しなければならないだろう

第1に、同一性を保っている形相で、生滅することはなく、感覚されることもないもので、理性がその考察の対象としているもの

第2に、感覚され、生み出され、常に動き、ある場所に生じては滅び去るもので、思惑や感覚の助けを借りて捉えられるもの

そして第3に、いつも存在している「場」で、滅亡することなく、生成するすべてのものにその座を提供しているもの

その上で、真実とは次のことに他ならない

似像は、その拠って生じたところのもの(自身の成立条件・原理)が似像自身のものではなく、他者の影像として動いているので、他者の中に生じて、どうにか「ある」にしがみついているのが、似像に相応しい在り方である

真に在るものには、厳密な意味で真なる言論が味方について、あるものと他のものが別のものである限り、同じものが同時に1であり2であるということは決してないと主張する









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