2022年9月12日月曜日

コリングウッドによる自然(9): ピタゴラス学派(2)

































コリングウッド(1889-1943)はプラトン(427-347)をピタゴラス学派に入れ、その形相論について語っている

ピタゴラス主義によれば、事物にあるがままの行動をとらせ、あるがままのものたらしめるのは、そこに内在する形相である

このことから、形相が本質と同一視された

形相は自然界を構成する様々な事物のような感覚的なものではなく、叡智的なものである

形相は完全で実在的である叡智界と呼ぶべきものを構成している

その意味は、「円」とか「善」は、我々の精神内にある単なる観念なのではなく、自然界のものが人間の思惟から独立して存在しているように、存在しているということである

後にプラトンが「イデア」と呼ぶことになるものは、他の物質と同じように「実在的」なのである


これに対して、感覚的事物は非実在的なものであり、形相などの叡智的な事物に比べれば、遥かに実在性が薄い

プラトンは、生成するものは存在するものではないという

変化している時、本来の性質とは対立する要素を内に持っており、不変固有な性質が失われている

円や三角形では、そのようなことは全くない

これは形相や叡智的なものに当て嵌まる


当初、形相は物質と相関するもの、あるいは事物の中に存在するものとして捉えられていた

ピタゴラス(c.582 BC-c.496 BC)の数学的形相やソクラテス(c.470 BC-399 BC)における倫理的形相は、内在性のものであった

コリングウッドによれば、この見方を放棄し、形相を超越的とする考え方を初めて提出したのがプラトンだった

ここで注意すべき点が2つある

第1は、内在性と超越性は二律背反ではないということである

あらゆる神学には内在的要素と超越的要素の両方があり、それぞれの強調のされ方で見え方が異なってくる

第2に、哲学における「発見」「初めて」「新しい」という言葉には、特殊な意味があることだ

例えば、50歳で何かを発見したと言う時、発見というよりは「初めて了解した」「以前より一層明らかに事物の連関を理解した」ということに近い

そして、これらの「発見」の契機は、他人の著作や言葉からだと発見者は言うだろう

他人の仕事に依存せずに「発見」することがあるかもしれないが、それは極めて稀である

プラトンは形相を超越的だとしたが、そこに導いた先人たちを過大に評価する謙遜の心を持っていた

彼らを登場させる作品を残したのである


我々が考えているイディア論は、2つの部分に分けられる

第1に、初期ピタゴラス主義において、数学的形相は第一義的に内在的と考えられた

プラトンは形相の概念を洗練、統合し、第一義的に超越的な概念に仕上げた

第2に、ソクラテスの倫理的形相は第一義的に内在的とされたが、プラトンはそれを第一義的に超越的なものとしたのである


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「発見」についての考察は、思索を刺戟する

哲学に入って以来、哲学における発見とは何を言うのか疑問に思っていたからだ

「発見」という言葉は、わたしの場合、それまで自分の中になかったものを見出した時によく使う

科学における発見とは全く意味が違う

他の人がすでに発見していても何の問題もないのである

それに自分が気づくことが重要なのである


それから、自分の言葉で考えを発表しなさい、という類のことがよく言われている

しかし、その考えというものは、気づいているかどうかは別にして、殆どを過去人に負っているのである

もしそこに真があるとすれば、自分の考えなどと言うのは烏滸がましいだろう

むしろ、過去人を登場させて(引用しながら)話を進めるのが理に適っている

プラトンの態度には共感するところ大である








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