18. この基本となる気分を呼び覚ます前提として、我々の同時代の状況とそこに広がる基本となる気分を確認する
c)文化の哲学が提供する我々の状況の解釈の隠された基本となる気分としての深い退屈(つづき)
もし我々が基本となる気分を呼び覚まそうと努めているのであれば、我々が提示されているだけの「表現」から前に進まなければならない
おそらく、基本となる気分の呼び覚ましは、確かめることのように見えるが、提示や確認とは別の何かである
従って、もし我々が言う全てが我々の状況の提示のように見え、この状況の底にある気分を確かめ、その状況の中で表現しているように見えるという事実から逃れることができないとすれば、そしてもしこの類似を我々が否定できないとすれば、それは曖昧さが初めて始まったということを言っているに過ぎない
これは驚くべきことだろうか
もし我々が哲学することの本質的な「曖昧さ」についての予備的な特徴付けが中身のない常套句であったとすれば、「曖昧さ」は「始まり」においてその力を加えるはずである
前もって、我々の精神的状況を提示することと基本となる気分を呼び覚ますこととの間に理論的な違いがあると宣言することによって、そのような曖昧さが軽減されることになるとは信じたくはない
そうすることによって我々は何ものからも解放されないのである
我々の始まりが適切なものであればあるほど、我々はこの曖昧さをそのままにし、各個人が自分自身で本当に理解しているかどうかを決めることが益々難しいものになるだろう
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今日の部分を自己流に解釈して一般化すれば、次のようになるだろうか
ある現象や問題について明らかにしようと思ったとする
そのことについて考えた時、Aのようにも見えるし、Bのようにも見えるということが起こったとしよう
これは、そこに曖昧さがあることを意味している
その時、AとBはそもそも違うものなのだと言い募っても、そこにある曖昧さが消えることにはならない
問題の解決にはならないのである
問題に正面から向き合うということは、このような曖昧さを抱え込んで考えることを意味している
最初にこの点を胡麻化すと大きな問題が残されたままになる
さらに一般化すると、次のようになるだろうか
問題に対する時には、最初に感じたものをすべて受け止めて歩み始めなければならない
真の解決にならない条件を付けて、問題を狭めないことである
大きく難しい問いを開いたままにして始めることである
この解釈が間違っているのかいないのか、今後明らかになるかもしれない
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