2022年3月20日日曜日

ハイデッガーの形而上学(36)

























18. この基本となる気分を呼び覚ます前提として、我々の同時代の状況とそこに広がる基本となる気分を確認する

b)我々の同時代の状況の4つの解釈の源泉としてのニーチェのディオニュソス的なものとアポロ的なものの基本的な対立(つづき)


それから、ニーチェがこの対立をおそらく最も美しく決定的な形であり、その源泉と結び付けるものの中で解釈している段落が続く
「ディオニュソス的」という言葉で表現されているのは、統一への衝動であり、個人、日常、社会、実在を越えでて、消滅の深淵を越えでてつかみかかるはたらき、すなわち、より暗い、より豊満な、より浮動的な諸状態のうちへと激情的に痛ましく溢れでるはたらきであり、あらゆる転変のうちにあって変わることなく等しきもの、等しい権力をもつもの、等しい浄福をめぐまれているものとしての、生の総体的性格へと狂喜して然りと断言することであり、生の最も恐るべき最も疑わしい諸固有性をも認可し神聖視するところの、大いなる汎神論的共歓と共苦であり、生産への、豊穣への、回帰への永遠の意志であり、想像のはたらきと絶滅のはたらきの必然性の一体感である。

「アポロン的」という言葉で表現されているのは、完全な孤立への、典型的「固体」への、単純化し、際立たせ、強め、明確ならしめ、一義的ならしめ、典型的ならしめるすべてのものへの衝動、すなわち、法則の下での自由である。

これら二つの自然の芸術的威力の敵対関係に芸術の発達が結びつけられているのは、人類の発達が両性の敵対関係に結びつけられているのと同じく、必然的である。権力の充実と抑制、冷ややかな、高貴な、とり澄ました美しさにおける自己肯定の最高形式、すなわち、これがギリシア的意志のアポロン主義にほかならない 。

そして、この解釈の起源についての彼の特徴付け、すなわちギリシア世界の最も深い分析が続く
ギリシア人の魂内におけるディオニュソス的なものとアポロン的なものとのこの対立性が、私がギリシア的本質に当面して心ひかれる想いを感じた大きな謎の一つである。私が骨折ったのは、根本において、なぜまさしくギリシア的アポロン主義がディオニュソス的地底から発育せざるをえなかったのかを見ぬくことにおいてほかにはない。ディオニュソス的ギリシア人こそ、アポロン的となることを必要としたのである。言いかえれば、物すごいもの、多様なもの、不確実なもの、恐ろしいものへのその意志を、節度への、単純性への、規則と概念に従属することへの意志でくじくことを必要としたのである。節度なきもの、荒涼たるもの、アジア的なものを、ギリシア人は心の底にもっている。だから、ギリシア人の勇敢さはそのアジア主義との闘争にある。美はギリシア人にとっては贈与されたものではなく、論理も、慣習の自然性もそうではない、――美は、征服され、意欲され、戦いとられたものであり――それはギリシア人の勝利なのである。
この対立が「ディオニュソスと十字架にかけられた者という二つのタイプ」にどのように変容したのかを示すための最後のポイントである
ここから私はギリシア人の神ディオニュソスを立てる。すなわち、生の、否認され折半された生ではなく、全き生の宗教的肯定を。(典型的なのは――性的行為が、深みを、秘密を、畏敬を呼びおこすということである。)

ディオニュソス対「十字架にかけられた者」、そこに君たちは対立をもつ。・・・十字架にかけられた神は、生の呪詛であり、おのれをこの生から救済しようとする指示である、――寸断されたディオニュソスは生の約束である。それは永遠に再生し、破壊から立ち帰ってくるであろう。


ニーチェにおいて対立は生きており、我々の状況について提示された4つの解釈では決して明らかにならず、単に文学的形態として伝えられた材料としての効果しか齎さなかったことが分かる

4つの解釈の中でどれがニーチェの意味においてより正しいのかはここでは決めない

ニーチェ哲学――風変わりな基盤に基づくものではあるのだが――の本質をすべて間違えている限りにおいてどれも正しくないことを示すこともできない

これらの基盤は普通の、形而上学的には非常に疑わしい「心理学」に基づいている

しかし、ニーチェにその資格はあるが、これは白紙委任状(carte blanche)である


我々が知っているのは、ニーチェがすでに述べた解釈の源泉であるということだけである

それを言うのは、これらの解釈にはオリジナリティがないことを責めるためではなく、理解が得られたところからの方向性と、対立の場所そのものがどこにあるのかを示すためである(ゲオルゲクライス、精神分析、参照)









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