17.気分の暫定的な特徴付け:ダーザインの基本的な在り方としての気分、ダーザインに生きる糧と可能性を与えるものとしての気分.ダーザインとしてのダーザインを把握するものとしての気分の呼び覚まし(つづき)
我々はこれらのことから「気分」と言われるものを正しく理解することの意味を理解しなければならない
それは心理学と反対の立場を採ることでも、感情の経験をより正確に限定することでもない
寧ろ、人間のダーザイン(そこに在る状態)について、全体的なパースペクティブをまず開くことである
気分とは我々自身がそのような状態に置かれていると認める基本的な方法で、そのような状態にあることに基づく"how"のことである
我々はしばしばこれを、「何」をやろうとしているのか、「何」に従事しているのか、「何」が起こるのかということと対比して理解する
しかし、我々がそのような状態にあるということは、我々の思考、行動の結果や副次的なものでは決してないのである
我々が全く注意を払わない気分、我々が恰もそこに気分が全くないように感じさせる気分
これらの気分が最も強力なのである
我々は、喜びや悲しみのような極端に向かう特別な気分によってのみ影響を受ける
全くそこにないと同時にあるのは、我々が機嫌が悪いのでもよいのでもないという気分の欠如である
しかし、この状態でも我々は気分なしではいない
上機嫌な一人の人間が生き生きとした雰囲気を齎すと言う時、それはそのような気分が齎されるということを意味するだけで、それ以前に気分がなかったということではない
気分というのは魂の空きスペースに現れ、そして消えるようなものではない
寧ろ、ダーザインとしてのダーザインは常にすでにそこにあり、それが変化するだけなのである
気分とは思考と行動のための前提であり、環境であると暫定的に言った
その中で我々は初めてそこに在るものとして、ダーザインとして、我々自身に会うのである
まさに気分の本質はその存在の中にあり、単なる副次的なものではなく、ダーザインの基盤に我々を戻すものである
そのため、気分の本質は我々から隠されたままなのである
このことから、気分を呼び覚ますとは、ダーザインを把握する方法を意味していることが明らかになる
ダーザインを在るものとして在らしめる特別な方法で把握することである
このような呼び覚ましは奇妙な企てであり、難しく、殆ど分かり難いものである
我々の務めを理解したとすれば、気分について熟考を始めるのではなく、我々は行動しなければならない
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