道理に叶っているという判断が暗黙のままであるとしても、そのような判断は科学的研究によって前提とされているとわたしは主張した
道理に叶っているという判断は客観的であり得ると主張した
そして、それらの判断は「価値判断」の典型的な性質をすべて持っていると主張した
つまり、「事実の知識は価値の知識を前提とする」と言ったわたしのプラグマティストの教師は正しかったと主張した
しかし、過去半世紀の科学の哲学史は大部分、この問題を避ける試みの歴史であった
明らかに、どんな空想であれ、実証主義の最後の?ドグマ――事実は客観的で価値は主観的であり、両者は決して交わらない――を考え直すことより望ましいと見られているのだ
その空想には、演繹の論理だけで科学を行うという空想(ポッパー) 、科学をアルゴリズムを単純に試すことに還元するという空想(カルナップ)などがある
科学者の誰一人としてわたしに異議を申し立てなかった
にもかかわらず、我々が「帰納の論理の神話」と呼ぶものに科学者自身が同意していないとしても、一般人や科学哲学者を含む哲学者の科学に対する考え方に強い影響を及ぼしていた
「事実」に対する信仰は価値に対する「態度」と根本的に違わなければならないとする考えは、価値は「認知されない」という考えの有力は擁護者であったチャールズ・スティーブンソンに支持されていた
彼は「情緒主義」(emotivism=価値判断は単なる情緒的な「説得」に過ぎないとする主義)の父で、価値判断は「帰納と演繹」によって検証できないとした(しかし「事実についての信仰」はできると考えたのだろう)
従って、「帰納」の問題という認識論における技術的な問題として始まったものは、価値の問題を理性的に議論できる可能性に決定的な役割を果たしたのである
事実と価値が深く絡み合っているという考えの事例は、過去100年の最良の哲学研究のいくつかに依拠している
わたしは何年もの間、科学、特に社会科学においては、事実と理論と価値の絡み合いを扱わないわけにはいかないということを主張してきた
それは三本脚の椅子のようなもので、全ての脚が揃っていなければ倒れるのである
もし何かが「価値判断」であれば、それは完全に「主観的」であるはずだという余りにも一般的な考えは、危うい基盤の上にあるだけではなく、完全に崩れ去った基盤の上に立っているのである
このことを理解することは、「価値についての理性的な議論」の可能性と重要性に対する信頼を取り戻す時に決定的になるとわたしは考えている
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