John Smibert (1688-1751), The Bermuda Group (Dean Berkeley and His Entourage)
バークリー(1685-1753)のつづきである
昨日のまとめたバークリーの議論の本質に間違いはない
彼はしばしば 性急に自分自身を表現するため、とても健全とは言えない議論で自己防衛しようとした
しかし、細部の批判は彼の主要な立場には触れなかった
彼が対峙した問題を理解するやいなや、唯一のやり方で解決したと人は気付くのである
精神と物質の概念を17世紀の宇宙論で定義されたように定義するのであれば、両者の関連を発見するという問題は、バークリーが解いたようにしかできないと認めざるを得ないのである
ただ、なぜ精神が二重の働きをしなければならず、それによって物質を創り出すのかという問題はそのまま残った
そして彼の答えは、もし広まっている精神の理論が正しければ、物理学者が物質世界に存在することを見出す特徴は、まさに悟性によってそれ自身のために構成されたどんな対象にも存在するものであろう
しかし、バークリーもカントも十分に扱わなかったもう一つの問題があった
もし自然が精神活動の産物として精神によって創られるならば、その精神とは一体どのようなものなのか
それは人間個人の精神ではないだろう
バークリーは、物理世界の創造者は人間や有限の精神ではなく、無限で神的な精神、絶対的な思惟者としての神であると主張した
こうして彼は、ルネサンス期の汎神論、すなわち神の体としての物質世界という考えを一掃したのである
世界は神ではなく、神の思惟の活動による創造物だった
それでは、無限の精神と人間の有限の精神との関係はどういうものなのか
バークリーにとって、この2つは全くの別物であった
神の精神は、それが思惟するものを創るアリストテレスの能動的理性(intellectus agens)に似たものになり、人間の精神は神に与えられた秩序を理解する受動的理性のようなものになる
しかし、これはバークリーの出発点とは一致しないものであった
なぜなら、精神は少なくとも自然の一部、第二性質を創造するという考えを彼がロックから受け継いだ時、その精神は人間の精神を意味していたからである
それを否定すれば、彼の観念論の全構造は崩壊するのである
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