科学知が特別な領域で、その外に他の思考法で探求すべき領域があるという指摘は新しいものではないと強調しておきたい
デカルト(1596-1650)が唱えた「普遍学」は、歴史、詩、神性という3つの領域の外に構想されたものである
これらの領域で有効だった思考形態をデカルトは価値がないとは見做さなかった
これらの思考を重視していたが、彼が提唱する学問は狭義の科学的方法だったので、そこから排除したのである
カント(1724-1804)はこの視点をデカルトから受け継いだが、一点だけ異なっていた
それは、デカルトが形而上学を科学的方法の中に入れたのに対し、カントはその外に置いたのである
つまり、科学知の対象は神でも精神でも物自体でもなく自然であり、その方法は知覚と悟性の組み合わせである
この方法で明らかにされるのが自然なので、それは繰り返され予測可能であるが故に科学的な方法で理解される単なる現象に過ぎなくなる
これらの真理は科学的ではない知によって齎される
それを哲学的な知と呼ぶことにしよう
そうすると、物自体があるという我々の知識は哲学的な知になり、物自体が何かを教えなければならないのは哲学的知になるのである
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今日のお話はわたしのこれまでの道行と深く関わるもので、実に興味深かった
わたしが感じてきた疑問や問題が、このような形で議論されていたことが分かったからである
これは、科学と哲学の中心的課題とわたしの思索が交わっていたことを意味している
満更的外れでなかったどころか、的を射ていたと言えるのではないか
デカルトの知は、形而上学を根にして幹が物理学、そして枝がそれぞれの科学と道徳から成り立っていた
「科学の形而上学化」は、カントが科学の外に置いた形而上学を科学をより深く理解するために再び活用しようとする試みとして捉え直すことができる
カントは科学者の必読書だと言われたことがあるが、その意味が分かったような気がする
実践する必要がありそうだ
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