今朝、この方の言葉に久し振りに出会った
ヴァレリー・アファナシエフ(1947- )
そこにあった「創造された作品の再-創造」という見出しに何かを察したのである
早速読んでいた
彼の話には哲学者がよく顔を出す
「あるものが『正しい提示』なのかどうかを決定する規範は高度に柔軟なものであり、相対的なものである。しかし、表象が元の作品に拘束されるという事実の意義は、この拘束が確固たる規範を持たないという事実によって減じられるものではない」
オリジナルを恣意的な演奏のための犠牲にすることはできない
あくまでもオリジナルに何らかの拘束は受けるということである
アファナシエフはこうも言っている
「ある意味において、実演とはおそらく再-創造である。しかしながら、それは創造行為の再-創造ではなく、創造された作品の再-創造なのであり、実演者が作品の裡に見出した意味と一致するかたちでの提示に至らなければならない」
これを読んで浮かんできたのが、現在取り掛かっている免疫のエッセイのことであった
それは「科学の形而上学化」という方法を免疫に当て嵌めようとする試みになる
そこでの考え方も、アファナシエフの演奏論と繋がることがあるように感じた
つまり、この方法はあくまでも科学の成果に基づき、その事実から触発される見方や考えを展開するというものである
アファナシエフの言葉を借りれば、「科学によって明らかにされた自然を再創造する試み」と言えるかもしれない
創造する行為なのだと明確に意識できると、これから先の道行が違ったものになりそうである
そんな考えを弄んだ土曜の朝であった
因みに、このブログに2度ほどアファナシエフの名前が出てくる
人間ワレリー・アファナシエフを観る(2019.12.14)
クリスマス・イヴのパリ(2019.12.24)
そして、最初のブログと2番目のブログにもその名を発見
ボサノバ、あるいはポルトガル(2006.2.16)
よい年をお迎えのことと思います(2008.1.1)
こうしてみると、長い間の顔見知りということになる
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