2022年11月1日火曜日

コリングウッドによる自然(33): ルネサンス期の自然観(9)





昨日の朝はトンボがよく飛んでいた

何匹も家の中に迷い込んできて、気持ちよさそうに日向ぼっこをしていた

どこか弱々しい感じは拭えなかったのだが、、

さて、久し振りのコリングウッド(1889-1943)である

今日はスピノザ(1632-1677)について語るようだ

早速始めたい


当時の主流は、デカルト(1596-1650)から、スピノザ、ニュートン(1642-1726/7)、ライプニッツ(1646-1716)、ロック(1632-1704)によって採られた方向に動いて行った

彼らに共通する考えは、物質と精神は全くの別物で、両者はその源泉としての「神」から何らかのやり方で生じたものであるということであった

源泉としての「神」は、一方向において自然あるいは物質を創造し、他方向においては人間精神を創造するとした

デカルトは、単純な二実体説を提起したのではなかった

彼の実体とは、それ自身によって存在するものなので、厳密に言えば「神」しか存在しないことになる

スピノザはこの制限を重く受け止め、唯一の実体が神で、それ以外の実体はないのだとすれば、精神も物質も神によって創造された実体ではないと主張

精神と物質は、1つの実体の2つの属性に過ぎないとし、彼はこの実体を「神」とも自然とも呼んだのである

それは、延長としては物質世界、思惟としては精神世界であるような無限で不変の全体である

両方の部分に、有限で変化し滅ぶべきところを含み、その変化は他の部分が働く作用因による

これにより、物活論の痕跡を消している

しかし、延長と思惟という2つの属性が強引に結合させられているため失敗した、とコリングウッドは見ている

それは、延長を持つものがなぜ思惟すべきなのか、同様にその逆についても理由が存在しないからである

そのため、スピノザ理論は理解し難いものを残し、単なる断言に留まっているという評価をしている











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