この困難な状態でカントが言うことは、我々は物自体を知ることはできないが、それを考えることはできるということである
すなわち、センスデータを我々に与えるものとして、従って理性的で創造的なものとしてそれを考えるのである
彼の倫理的研究から、理性的な創造的活動は人間の意志の中にあると確信するようになったので、物自体は何よりも意志のようなものであると示唆するところまで行った
その形而上学は、現象の究極の基盤は物質よりは精神のようなものの中に求めるべきだというものである
物質世界は、その存在が我々の精神活動による現象の集合として我々には知らされるのに対して、能動的で道徳的な主体としての実際の経験は、精神的な現象の単なる集合としてではなく、在るがままの精神が現れるのである
例えば、心理学者が実験室の条件下で行ういかなる精神の「科学的」研究の試みも、自然現象と同様、我々の思考様式に対応する「精神現象」の構築に終わるだろう
精神がそれ自体どのようなものかを知りたければ、答えは「行動せよ、そして見つけ出すのだ」である
我々が行動している時、科学研究の中では決していないように、「現実に直面している」
行動の生とは、人間の精神が精神としての存在を実現していると同時に、精神としての自らの実在を意識している生である
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