それは個人の思想家の精神ではなく、超越的(先験的)な自我、あるいは純粋な悟性であり、自然を構成するものの創造はしない我々の思惟に内在するものである
したがって、カント流の観念論は、自然すなわち物理学者の自然を人間がものを見る時の産物、本質的に理性的で必然的な産物であると考えていた
それ自体が何かを問うと、我々はそれを知らないとカントは答えるだけである
物自体という問題は、カント哲学の最も謎多き問題の一つである
それは、自分自身と矛盾することなくこの問題を述べることが不可能に見えるからである
我々が知るものが何であれ、我々の感覚と悟性を併せて用いることにより知る
真の直観は感覚的なものでだけで、悟性の唯一の使い道はそれについて考えることである
それゆえ、真の知識は思慮深い受容である
我々が感受するものは、現代の言葉で言えばセンスデータから成っており、カントは2世紀の間受け入れられていた見方を受け入れたのである
それゆえ、我々が知るのは現象的なものだけである
ここで矛盾が現れる
これらのデータが与えられる精神はそれ自体データではなく、それを与える物自体もデータではない
この議論は、精神と物自体が存在しなければならないが、我々はそれを知らない
もしそうであれば、これらのものが存在するとどのように言うことができるのだろうか
知らないものがカントの哲学体系に入り込むのである
(この項つづく)
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