18 novembre 1957
現象学、関係主義、道徳問題。あらゆる知覚において一つの典型、一つの本質を見ることが可能であるという事実の重要性。本質は常に関係の中にあり、「社会的」である。独我論に関するフッサールの言説の新しい側面。それはまさしく、わたしを他者と結び付けている本質的構造をわたしが発見するのは独我論の中である。知るということは、個人の中にモデル、典型、規範を発見することを意味している。
25 mars 1958
現象学的態度は、時に我々を考えさせ、時に哲学を生きさせる。しかし、それは我々を書く気にさせたり、我々の考えを固めさせたりしない。その意味では、現象学的態度はソクラテス的なのである。
28 mars 1958
『危機』(『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』)の視点から、わたしは再考する。地域の存在論、あるいは形相的、視覚的であると同時に超越的な知の未だ定義されたことのない概要について。プラトン主義、理想的な目的としての理性の明晰さの価値、そして文明と歴史の意味を新しい形の下に生まれ変わらせる形相的直観の再評価。有機的な知、常に新しい見方を開く志向性の視点は、「生活世界」(Lebenswelt)の絶えざる奪還と相関している。まさに、新しい地平を我々に開き、経験の具体性の中で我々を生きさせるための判断の中断(épochisation)。経験と理性的な視点は、過去や未来がそうであるように無限である。無限は可能性と曖昧さを持つ何かのように我々を包んでいるが、それは我々の有限の時間の具体性の中に生きている。フッサールに由来するこの示唆は有機的であり、方向付けされている。この視点から見ると、ホワイトヘッドの哲学的観点との相同性を免れるものではない。今日、何年か前にどのようにホワイトヘッドについて書くべきだったのかを知る。
ホワイトヘッドの言う「感情」(feeling)は「生活世界」(Lebenswelt)である。「感情」において、宇宙は出来上がった理論の中に閉じ込められ終わることはない。そうではなく、ある過程の中、異なる生活の歴史の中、時間の中での出来事のあらゆる関係性の中で更新されるのである。「もの・こと」は、過去と未来の中で、他の無限のモナドと結び付けられている開かれたモナドになる。まさにこれらのモナドは時空の中心であり、閉じたモナドではないため、互いに交差し出会うのである。時空の中で他の出来事の集合と関係を持つ出来事の集合、出来事の社会性。フッサールの志向性はホワイトヘッドの「美的」感覚と類似している。
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